1981年前後のオールディーズやシティ・ポップについての個人的な記憶

「銀幕の中 泣き顔の ジェームス・ディーンのように」

甲斐バンド「HERO(ヒーローになる時、それは今)」(1978年12月20日発売)には、このような歌詞があった。この曲はセイコーの時計のCMソングになっていて、その映像は1979年の元旦になったと同時に民放各局で放送されたのだという。当時、小学生だった私はその瞬間を見ていたような気もするし、見ていなかったような気もする。いずれにせよ、このCMはその後も頻繁に放送されていて、私にはとてもカッコよく思えたのだった。

この時点で甲斐バンドはそこそこのキャリアを重ねていて、1975年には「裏切りの街角」というヒット曲もあった。しかし、その頃はまだ小学校低学年でテレビで歌われている流行歌ぐらいしか知らなかったので、甲斐バンドというのは新しく現れたニューミュージックのバンドだと思っていた。

先日、スピッツの草野マサムネ(1967年生まれ)がやっている「SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記」というラジオ番組で、雑誌「昭和40年男」2020年11月号の特集「日本ロック元年」を取り上げていたようだ。この番組は私の妻が毎週、笑いながら聴いている素晴らしい内容だということなのだが、私自身はまだ聴いたことがない。ところで、「日本ロック元年」という特集なのだが、日本のロック元年を1978年とする、ある意味、かなりの暴論だといえなくもないコンセプトである。いわゆる「はっぴいえんど史観」どころの話ではない。

しかし、この雑誌、誌名からも分かるように、昭和40(1965)年生まれの男性をターゲットとしている。そして、それとほぼ同世代でもある私からしてみると、これはこれで違和感はないかな、というような気もする。もちろん日本にロックはこれより何年、何十年も前からあったのだろうが、たとえば昭和40年生まれの男性が生まれてはじめてロックを意識したのがこの年、ぐらいの感じなのだろう。つまり、世良公則&ツイストのようなロックバンドが「ザ・ベストテン」のようなお茶の間の人気テレビ番組に出演し、ごく一般的な家庭の小学生までをも熱中させたことのインパクトである。しかし、当時、このようなロックバンドの音楽も、「ザ・ベストテン」にランクインしているようなものはニューミュージックといわれていたような気がする。

歌謡ポップスと演歌以外の日本のポップ・ミュージックはすべてニューミュージックと呼ばれていたような印象があり、後にシティ・ポップと呼ばれたり日本のロックと呼ばれるようなものもこれに含まれていたような気がする。世良公則、原田真二、Charの3人はニューミュージック御三家と呼ばれていたような印象があるのだが、ロック御三家と呼ばれていたとする説もあり、この辺りはなんとなくぼんやりとしている。

そういった訳で、当時、甲斐バンドもニューミュージックと見なされていたのではないかと思うのだが、とにかくそのセイコーのCMはカッコよくて、私も「HERO(ヒーローになる時、それは今」のレコードは買ったし、オリコン週間シングルランキングで1位にもなった。

そして、注目すべきは歌詞に登場するジェームス・ディーンである。1950年代に活躍するも24歳の若さでこの世を去った、伝説の俳優である。代表作に「理由なき反抗」「エデンの東」などがある。ジェームス・ディーンが交通事故で亡くなったのは1955年9月30日ということなのだが、70年代の日本においてもポップ・アイコンとしての人気はかなりのものだったと思われる。最近ではあまり見かけなくなったような気もするポスター屋のような店では、常にジェームス・ディーンのポスターが良いところに貼られていたような気がするし、ジェームス・ディーンの写真を使った鏡やゴミ箱といったグッズにも人気があったように思える。

あの大人は判ってくれないというような、苦悩をにじませた切なげな表情が若者の心に強い何かを訴えていたのだろうか。T.C.R.横浜銀蠅R.S.のJohnnyがソロでヒットさせたシングルのタイトルも、「ジェームス・ディーンのように」(1981年11月8日発売)であった。

1981年3月21日にリリースされ、この年のオリコン年間アルバムランキングで第2位の大ヒットを記録、日本のポップ・ミュージック史に残る名盤とされる大滝詠一「A LONG VACATION」だが、このある意味、マニアックともいえる作品が当時、これほどまでにヒットした要因とは何だったのだろうか、というようなそれほど深刻でもない興味や関心を浅めに掘り下げている過程で、当時のオールディーズとシティ・ポップが同時に受け入れられていたような空気感にフィットしたのかもしれない、というような仮説めいたものを立ててみたのだが、自分自身でもほとんど自信はなかった。というのも、当時、少なくとも旭川の中学校ではオールディーズを聴いている層とシティ・ポップ(と後に呼ばれる音楽)を聴いている層とは異なっているように思えたし、「A LONG VACATION」がAORの名曲としても知られるJ.D.サウザー「ユア・オンリー・ロンリー」に着想を得ていたとしても、たとえば田中康夫「なんとなく、クリスタル」の登場人物達が「A LONG VACATION」を一年後に聴いているとは思えなかったからである。

しかし、ここ数日間、いろいろな方々の文章を読んだりしているうちに、あのオールディーズリバイバル的なムードはやはり「A LONG VACATION」のヒットと関係があったのではないか、というような気分になっていたりもする。そう考えて思い返してみると、当時の私の個人的な記憶においても、確かにそうかもしれないと思えるようなことがいろいろとあった。

オールディーズと呼ばれる音楽のことをいつ、どのようにして良いと思ったかというと、おそらくテレビで放送されていた「グローイング・アップ/恋のチューインガム」のCMがきっかけだったのではないかと思う。この映画が日本で公開されたのは1981年の夏で、CMではダイアモンズの「リトル・ダーリン」が流れていたのではないかと思う。

「グローイング・アップ」というのは全編でオールディーズの名曲が流れまくる青春映画で、シリーズ化もされていた。ジョージ・ルーカスが監督した1973年の映画「アメリカン・グラフィティ」から影響を受けていると思われるのだが、「グローイング・アップ」はイスラエル映画で、最初に公開されたのは1978年だったのだという。当時の私には「アメリカン・グラフィティ」と「グローイング・アップ」の区別があまりついていなかったような気もする。

「グローイング・アップ」のシリーズ第3作「恋のチューインガム」が公開されるタイミングでフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」ではシリーズ前作にあたる「グローイング・アップ2/ゴーイング・ステディ」が放送されていた。声優に当時、人気絶頂の田原俊彦などが起用されていた。これは当時、リアルタイムで観ていたような気がする。放送日は1981年8月8日だったらしく、「A LONG VACATION」がリリースされてから最初の夏のことであった。

この年の7月にFM情報誌「FM STATION」が創刊されている。FM情報誌というのは一体何なのかというと、いろいろな音楽情報とFM局の番組表が2週間分掲載されている雑誌で、当時は「FMレコパル」「週刊FM」「FM fan」に加え、新創刊の「FM STATION」があった。なぜ、FM情報誌にそれほど需要があったかというと、当時のFMラジオというのは音楽ファンにとって貴重な情報源であったのと同時に、ライブラリーの素でもあったからである。当時の音楽ファンにとって、FM放送というのは聴くだけではなく、録音するものでもあった。FM放送はまず音質が良いのと、曲も基本的にノーカット、フルコーラスでかかった。現在のようにナビゲーター(当時はパーソナリティーとかDJ)のトークや曲紹介が曲のイントロや途中に入るようなスタイルが主流になったのは、80年代の後半あたりからだったような気もするのだが、記憶が定かではない。

FM雑誌に掲載された番組表にはかかる曲やその時間までが記録され、読者は録音したい番組や曲に蛍光マーカーなどで印を付けて、熱心な者などは時間を計算し、カセットテープになるべく限度いっぱいまで入るように工夫していたりもした。FM雑誌にはそれぞれ特徴があり、オーディオ情報が充実しているもの、ビルボードのチャートが掲載されているものなど、いろいろあった。

私は新創刊された「FM STATION」派だったのだが、理由は軽くて薄い、つまり軽薄だったからである。それは、80年代的だったと言い換えることができるかもしれない。物理的に実際に軽くて薄くて、その上、価格まで少し安かったのだが、表紙が鈴木英人のイラストでシティ・ポップ的だったのが、とても良かった。鈴木英人といえば山下達郎「FOR YOU」(1982年1月21日発売)のジャケットのイラストを描いた人としても知られる。創刊号の表紙がシーナ・イーストンで、確か1981年の初夏、修学旅行から帰ってきて旭川駅前で解散になった後、私はミュージックショップ国原かどこかでシーナ・イーストン「9 to 5(モーニング・トレイン)」のシングルを買ったのであった。その時、友人と最近、大滝詠一という人のレコードが気になっているが知っているか、というような会話をしたことを覚えている。大滝詠一の「君は天然色」はラジオでよくかかっていて、私はそれまでこのアーティストのことをまったく知らなかったのだが、なんとなく爽やかで良い曲だなと感じていた。はっぴいえんどのことは後に、大滝詠一やYMOの細野晴臣や松田聖子の歌詞などを書いている松本隆などが一緒にやっていた伝説のバンドとして知った。

この「FM STATION」の創刊号では「栄光のオールディーズ大特集」というのが組まれていたらしく、ここからも当時、オールディーズが注目されていたことが分かるというものである。FM雑誌の中でも特にポップな印象が強い「FM STATION」というのが、またポイントのようにも感じられる。

ところで、東京の私立などはまた違っていたのかもしれないが、「A LONG VACATION」がリリースされた頃の中学校といえば校内暴力が深刻化していて、それは私が通っていた旭川の公立中学校においても例外ではなかった。暴走族の写真集がベストセラーになるなど、世の中は不良、ツッパリブームである。T.C.R.横浜銀蠅R.S.が「ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校篇)」でブレイクしたり、猫にツッパリ少年少女のコスプレをさせてヒットした写真集「なめんなよ」なども1981年の発売である。

当時、毎年の元旦には「オールスターかくし芸大会」というのが放送されていてひじょうに人気があったのだが、1982年には田原俊彦や岩崎良美などが出演した「グローイング・アップ」のパロディー的な青春ドラマも放送されていた。「Lonely・マイ・Love」というタイトルがどうやら付いていたらしく、出演はたのきんトリオ、岩崎良美、香坂みゆき、浜田朱里、川崎麻世、中島はるみ、中原理恵、犬塚弘、コロッケ、ツービート、シャネルズ、ハナ肇だったということである。田原俊彦が岩崎良美に「酔っぱらいは嫌いよ」などと言われて殴られていたのと、ラストシーンでボビー・ヴィントンの「ミスター・ロンリー」が流れていたことはなんとなく覚えているのだが、それ以外が思い出せない。しかし、ハナ肇が学校の銅像を演じていたであろうことはなんとなく想像がつく(もしかすると違っていたのかもしれないが)。

これはあくまでパロディーではあったのだが、なんとなくとても良いと感じてしまい、お年玉の残りで後日、「グローイング・アップ」のサウンドトラック盤を買った。ローリング・ストーンズ「刺青の男」と同時にである。80年代の中学生なので反抗期であり、父との仲はそれほど良くなかったのだが、父のレコードコレクションの中にジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」があることは知っていた。子供の頃に面白がってかけて、「ビーバッパルーラー♪」などと真似て歌っていた。私が買った「グローイング・アップ」のサウンドトラックにはこの曲のジェリー・リー・ルイスによるバージョンが収録されていたのだが、父にわざと聴こえるようにこの曲をかけて、気づいてもらおうとするなどもしていた。

1982年の春に高校に入学すると、学力などによるセグメントが行われたことなどもあり、全体的に気分はライトでポップになっていたのだが、やはり現在でいうところのスクールカースト的には不良やツッパリのテイストをマイルド化させたようなタイプの人達が上位にはいるのであった。矢沢永吉の「YES MY LOVE」と細川たかしの「北酒場」が流行っていたが、私は田原俊彦のものまねなどを昼休みにやっていて、他のクラスからもギャラリーが集まったり、見ず知らずの田原俊彦ファンの女子から面と向かって不快感を表明されたりもしていた。私も他のクラスの本人とは似ても似つかぬ女子が松本伊代に似ているなどと言われて持て囃されていることにムカついていたので、その気持ちはよく分かった。

当時は大滝詠一・佐野元春・杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」、山下達郎「FOR YOU」、佐野元春「SOMEDAY」などを好んで聴いていて、大滝詠一「A LONG VACATION」もリリースから1年以上経ってやっと買っていたのだが、高校に入学すると同じような趣味で話し合える人も結構いて、なかなか楽しかった。しかし、彼らの多くが田原俊彦などのアイドルポップを軽視している傾向にあることについては、内心よく思っていなかった。不良やツッパリ的な文化圏にいたと思える男子の一人で、ジェームス・ディーン的な孤独をたたえた瞳をしているのだが、後にネタキャラとしてブレイクを果たす人物がいた。彼は不良やツッパリに人気の原宿のブティック、クリームソーダの店員によって組まれたというロカビリーバンド、ブラック・キャッツの音楽を好んで聴いていた。

高校野球の応援で旭川スタルヒン球場に行った時、彼が本当は禁止されていたのだが、ヘッドフォンステレオで音楽を聴いていたので、何を聴いているのかと尋ねてみたところ、「ナイアガラ・トライアングルVol.2」だったのが意外だった。杉真理「Nobody」が特に気に入っていると言っていた。

松本伊代がとにかく大好きで、高校受験の当日の朝には願をかける意味で「ラブ・ミー・テンダー」を何度も繰り返し聴いてから試験に臨んだぐらいなのだが、「花の82年組」といわれるぐらいで、その年には魅力的な女性アイドルがたくさんデビューしたので、やはり目移りはしてしまうものである。それで、小泉今日子でも堀ちえみでも石川秀美でも中森明菜でもなく、早見優であった。松本伊代に早見優ということで、当時のルックスの好みが完全に分かりやすい訳ではあるが、早見優のどこが良かったかというと、ハワイ育ちで英語の発音がとても良いところは個人的にひじょうに大きかったような気がする。あとはちょっと陰りがあったところである。勢いでファンクラブにも入ってしまうのだが、確かファンクラブの会報でだったような気がするのだが、ハワイ時代にはビーチ・ボーイズとカラパナが好きでよく聴いていた、というようなことをいっていた。

NHK-FMで「サーフィンU.S.A.」を聴いてわりと気に入っていたこともあって、ミュージックショップ国原でビーチ・ボーイズのベスト・アルバムを買った。「サマー・プレゼント」というタイトルで、日本独自で編集されたものらしい。2枚組でヒット曲がたくさん入っていたので、とても良かった。しかし、当時は単純明快な初期の曲の方が好きで、いまやビーチ・ボーイズの曲の中で最も好きな「神のみぞ知る」などはなんとなく地味で暗いのではないかと思い、その良さがあまり分かっていなかった。しかし、このベスト・アルバムは好きで聴きまくった。それから、山下達郎のグレイテスト・ヒッツも発売されたのでミュージック国原で買い、「RIDE ON TIME」以降の曲はもちろん、それ以前もカッコよくて最高だなと感じたのであった。

さて、高校の昼休みで、机はまるで掃除の時間のように後ろに寄せられている。大きなラジカセからオールディーズの曲が流れると、バスケット部の男子が激しくツイストを踊り出し、それを取り巻き達が囃し立てた。曲はダニー&ザ・ジュニアーズの「アット・ザ・ホップ」といって、「踊りにいこうよ」という邦題もあったようだ。とにかく彼らにとってこれは神曲といえるようなものらしく、ひじょうに盛り上がっていたのであった。

夏休みに留萌の黄金岬にキャンプに行こうという話が持ち上がり、もちろん私はノリノリであった。夏で海で女子も来るのだから、もちろんこれが青春というようなものである。当初は参加が予定されている人達が結構いたのだが、そのうちどんどん離脱者が出て、特に男子のカースト下位の「うる星やつら」や「ナイアガラ・トライアングルVol.2」の話をしていた人達まで来ないということになった。そのうち、とある父兄から学校にリークが入り、中止の憂き目を見かねない状況になった。しかし、そこで担任の女性国語教師が私が引率するのでやらせてあげてください的な流れに持っていったらしく、こういう大人ってカッコいいよね、というような気分になった。

ちなみにこの女性教師だが、田中康夫「なんとなく、クリスタル」を文学と認めるかどうかについての15歳男子のしょうもない議論にちゃんと付き合ってくれたり、国語表現なる授業のコンセプトそのものに対する異議申し立てとして、好きな文章の感想を書くという課題に対し、自分自身が書いたバンドの歌詞を自分で論評するというイタいことをやっていた私のような者にまでちゃんと接してくれたので素晴らしかった。当時は反抗ばかりしていたけれども。

引率と言いながらも実際に本当に引率をした訳ではなく、基本的には行きも帰りも現地でも生徒だけで盛り上がっていて、教師は途中で車で見に来て帰っただけである。逆にいうとそれだけ我々のことを信用して、リスクを取っていたともいえる訳であり、やはり素晴らしかったと思う訳である。

それはそうとして、このキャンプには女子はいろいろなタイプの人達が参加したものの、男子は不良、ヤンキー文化からマイルドに移行したタイプのスクールカースト上位者ばかりであり、それ以外のクラスタから参加したのは私のみといっても過言ではないような状態であった。それでも、夏で海で女子も来るとなれば青春だろう、青春しなくちゃまずいだろう、という呪縛からは逃れることができず、参加することに迷いは1ミリも無かった。キャンプファイヤー時に披露するため、田原俊彦「原宿キッス」の振り付けも完全にマスターした。しかし、これは私の田原俊彦の振りマネという芸をのものが完全にオワコン化していた上に、面白さよりもクオリティーに重きを置いたため、完全に失敗していた。感心はされていたが、誰も笑っていなかったのだから。

そして、他の高校の男子の集団とケンカになった、一瞬にして向うの男子とこっちの男子が1対1で取っ組み合いになり、女子は「やめてー!」と絶叫する、これがリアルに夜の浜辺で行われているという、まさにこれが青春である。それで、私はといえば他校の男子が誰も来なかったのと、基本的に女子と一緒になって後方にいたので完全に相手にされていなかった。向こうもこいつは見た目からして何か違うな、と判断したのだろう。

それでも、カレーを作る時の炊事の場面では、クラスでは話しかけることすらできなかった一軍のキラキラした女子がわりと気軽に話してくれて、もしかすると虫ケラ以下の取るに足らない存在だと思われているに違いないというのは、単純に私の被害妄想であり思い過ごしなのかもしれない、と感じたりもした。

とはいえ、このキャンプにおいて私が少なからず貢献したところとしては、ビーチ・ボーイズと山下達郎のカセットを持ってきたことというのが挙げられる。キャンプファイヤーを囲みながら、いつもながらに冴えなくてしょうもないなと感じながらも、これが青春であり来ないよりも来た方が絶対に良かったことは間違いないのだが、吹奏楽部で女子にモテモテだったとある男子が私が持ってきたビーチ・ボーイズのカセットを誉めてくれて、それに続いて他の男子も「良いよな」「トリコになるな」などと言ってくれて、それがとてもうれしかったことを覚えている。

学校の昼休みに「アット・ザ・ホップ」に合わせて激しくツイストを踊っていた男子は普段はとても寡黙なタイプだったのだが、クラスに付き合うか付き合わないかぐらいの絶妙な感じの女子がいて、彼女もこのキャンプには来ていた。そして、この二人が気がつくとキャンプファイアーを囲む一団にいなかったものだから、もちろん静かにざわつくというものである。ラジカセからは私が持ってきた、今度は山下達郎の方のカセットが流れていた。

やがて、暗闇からゆっくりと二人の姿が現れ、彼女は女子達のテントに入っていった。キャンプファイヤーを囲んでいるのは、もう男子だけになっていた。彼は上半身裸で、うつ伏せに寝そべっている。他の男子からはどこまでいったんだよ的な不躾な質問が当然のごとく寄せられるのだが、彼は答えない。何かの余韻に浸っているようにも、見えなくはない。ラジカセでは山下達郎の「潮騒」が流れていた。

「風を受けてる君がいとおしく 美しいくちもとに口づける」

スピーカーから山下達郎が甘い歌声でそう歌うと、彼は近くにあったラジカセのボリュームを少し上げ、それからふたたび目を閉じた。そして、そこにいた我々は何かを正確に理解したのであった。

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