1981年についてまだ語り尽くしていないことがあるとすればということについて

1981年3月21日に発売された大滝詠一「A LONG VACATION」の40周年記念日を前に、なんとなくその年のことばかりを書くというような流れに勝手に陥っているわけだが、これまでいくつか書いてきたものの、まだまだ書いていないことがあるのではないか、いや、それはあるに決まっているのだが、果たして書く価値があるのかどうかはとりあえず置いておいて、思いつく限り書いていって、飽きたら急にやめていきたい。

まずはこの1981年という年についてなのだが、これだけいろいろ書いてきていまさらかという気がしなくもないのだが、個人的にはいまひとつ盛り上がらなかった年という印象である。1980年はテクノ、アイドル、漫才が盛り上がり、1982年はそれこそ「花の82年組」というぐらいで人気アイドルがたくさんデビューした他、北海道の音楽ファンにとってはFM北海道の開局に加え、「ベストヒットUSA」がやっとこさネット開始という明るい話題もあった。そして、個人的には高校に入学して受験勉強から解放されたということがひじょうに大きいのだが、となると1981年の印象がいまひとつなのはそれの重圧にマイルドに苦しんでいたからではないかということも推測される。

それで、娯楽といえば主に「ビートたけしのオールナイトニッポン」や「オレたちひょうきん族」だった訳だが、他に「全米トップ40」や「リクエストコーナー」があった。「リクエストコーナー」というのはまったくもって捻りのないタイトルのラジオ番組なのだが、日曜の夜6時からNHK-FMで放送されていた。石田豊という方がパーソナリティーだったのだが、隔週でヒットチャート特集があり、特にヒットチャートをカウントダウンするという訳ではなく、ヒットチャートに入っている曲をノーカット、フルコーラスでかけるということで定評があった。日本盤が発売されていないようなものまでほとんどかかったので、大変重宝したのであった。

あと、NHK-FMでいうと「朝のポップス」とか「サウンドオブポップス」とか「軽音楽をあなたに」とか「夕べのひととき」とか「サウンドストリート」とかとにかくタイトルにひねりがないものが多かったのだが、内容はそこそこ良かったし、基本的に曲はノーカット、フルコーラスでかかることが多いので、当時はエアチェックと呼ばれてもいた曲をカセットテープに録音する行為にも向いていた。

佐野元春の音楽をはじめて聴いたのはこのうち、「軽音楽をあなたに」でだったのだが、そのうち「サウンドストリート」の月曜日を担当していることを知り、それも聴くようになっていった。

70年代後半において、ヒットチャートにはデビューしてからそれほど経っていないアイドルの曲はあまり上位にランクインしていなかった。榊原郁恵の「夏のお嬢さん」と石野真子の何曲かぐらいが例外だっただろうか。何せニューミュージックが全盛だったので、若者の関心はそちらに向いていたし、歌謡ポップスの世界ではピンク・レディー、沢田研二、山口百恵、西城秀樹、郷ひろみといったスター達にまだまだ勢いがあった。

1980年に松田聖子と田原俊彦がデビューして、ヒットチャートの上位に入ったというのは、なかなか新鮮なことだったのだ。アイドル歌手自体は毎年たくさんデビューしていたのだが、実際にヒットチャートの上位に入ること自体がひじょうに珍しかった。山口百恵が引退したりピンク・レディーの人気が失速した末に1981年には解散したりする中で、歌謡ポップス界も世代交代というか、新しいスターをなんとなく求めていたということもあったのだろう。田原俊彦に続いてジャニーズ事務所から歌手デビューした近藤真彦もまた大人気で、いわゆるマッチ旋風とでもいわれるようなものを巻き起こした。

同じく1980年には河合奈保子と柏原よしえがデビューしていたのだが、人気を少しずつ上げていき、「スマイル・フォー・ミー」と「ハロー・グッバイ」でそれぞれ初のトップ10入りを記録したのは1981年のことであった。あとは、レコードデビューが秋で、翌年の新人賞の対象だったため「花の82年組」にくくられていたのだが、松本伊代がデビュー曲の「センチメンタル・ジャーニー」をいきなりヒットさせるということもあった。あとは「3年B組金八先生」に出演していた伊藤つかさも「少女人形」でデビューしていきなりヒットを記録するのだが、あれは確か南こうせつの曲だったような気がする。

それから、角川映画の人気女優、薬師丸ひろ子が主演作品「セーラー服と機関銃」でレコードデビュー、いきなり大ヒットを記録する。これは作曲者、来生たかおとの競作ともなり、どちらともヒットはしたのだが、元々は来生たかおのバージョンが主題歌に決まっていたのだという。監督の相米慎二が薬師丸ひろ子に歌わせたいとほぼ独断で決めたらしいのだが、これに作詞者で来生たかおの実姉でもある来生えつこがブチ切れたなどともいわれているようだ。来生えつこといえば、この年のビートたけしのテクノ歌謡「俺は絶対テクニシャン」の作詞者としても知られる。

このようにして、アイドルポップスがさらに盛り上がる足場は固まっていた訳だが、翌年には中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優、シブがき隊などがデビューして、1983年ぐらいになるとヒットチャートの上位がアイドルだらけというような状態になっていく。

漫才ブームは1980年の「THE MANZAI」などによって爆発したのだが、翌年にはすでにいつ終わるかなどといわれたり、ブームが終わった後も生き残るのは誰か、というようなことが話題になっていたりもした。雑誌の連載かなにかでビートたけしは生き残るのは自分と島田紳助だと言っていて、そのうちそうなるから見ておけという感じでもあった。漫才ブームのピーク時の感じでいうと、特に爆発的に人気があったのはB&Bとザ・ぼんちだったのだが、結果的に残ったのはビートたけしと島田紳助であった。

ビートたけしについていえば、この年の元旦にはじまった「ビートたけしのオールナイトニッポン」がひじょうに大きい。これでテレビサイズには収まらないポテンシャルが発揮され、ものすごく面白いという印象が広まっていったような気がする。5月に放送が開始された「オレたちひょうきん族」においても、「THE TAKECHAN MAN」が用意されているなど、実質的に主役級の扱いであった。

テクノブームもすっかり落ち着き、前の年のオリコン年間アルバムランキングで上位10位までに3枚をランクインさせたイエロー・マジック・オーケストラも、大滝詠一「A LONG VACATION」と同じ3月21日にリリースした「BGM」は「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の約4分の1ぐらいの売り上げであった。それでも作品としての進化は高く評価されていて、ミーハー層が振り落とされただけという印象はあった。そして、イエロー・マジック・オーケストラのメンバーが歌謡ポップスの作曲や編曲を手がけることによって、後にテクノ歌謡などと呼ばれる音楽が生まれたり、他の職業作家の人達もテクノ歌謡的な曲をつくるような流れができていく。テクノブーム自体は短命に終わったが、それは日本のポップ・ミュージックに強い影響をあたえたとはいえるだろう。象徴的だったのが、細野晴臣が作曲・編曲をして大ヒットしたイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」だったと思うのだが、あれなどは本家本元によるものすごくクオリティーの高いパロディーとして成立していたような気がする。

「週刊少年ジャンプ」に連載されていたコミック「Dr,スランプ」を原作としたテレビアニメ「Dr.スランプ アラレちゃん」の放送が開始されるのもこの年であり、これもまた大ヒットした。私も妹がコミックを買ったりアニメを観たりしていたのでなんとなくふれてはいたのだが、あのポップさは時代の気分にもマッチしていたように思える。

あとは黒柳徹子「窓ぎわのトットちゃん」がベストセラーになったり、雪見だいふくやガリガリくんやリアルゴールドや麻婆春雨が新発売されたり、アメリカでエイズが発見されたり、「MTV」が開局したり、写真週刊誌「FOCUS」が創刊されたり、校内暴力が問題になったり、貸レコード店が流行したり、横綱の輪島が引退したり、神戸で「ポートピア’81」が開催されたり、東武動物公園や船橋のららぽーとがオープンしたり、アリスが活動を休止したり、パリ人肉事件や深川通り魔事件が起こったり、プロ野球界では阪神の江本孟紀が「ベンチがアホやから野球がでけへん」と言ったとされる件と中日の宇野勝がショートを守っている時に打球をヘディングしてしまう件と同じく中日の富田勝が史上2人目となる全球団からのホームランを記録する件が同じ日に起こったり、石野真子が長渕剛との結婚のため引退したり、東京12チャンネルがテレビ東京に、ラジオ関東がアール・エフ・ラジオ日本にそれぞれ社名変更したり、そのようなことがあった年だということである。

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