1985年までのサザンオールスターズにまつわる個人的な印象について。

サザンオールスターズのデビュー・シングル「勝手にシンドバッド」がリリースされたのは1978年6月25日で、私は旭川の小学6年生であった。同じ日に発売されたのはピンク・レディーの「モンスター」で、初登場週の1位はサーカス「Mr.サマータイム」であった。この年の夏はこの曲と矢沢永吉「時間よ止まれ」の印象がひじょうに強い。

有名な話だが「勝手にシンドバッド」のタイトルはこの前の年の大ヒット曲、沢田研二「勝手にしやがれ」とピンク・レディー「渚のシンドバッド」から取られている。実際にはテレビで沢田研二と志村けんがマネージャーとタレントに扮したコントがあり、その中でこの2曲をマッシュアップした音源を使い、そう呼んでいたのだった。

サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」自体はこの2曲とはまったく別の曲である。ラジオでよくかかっていたのだが、とにかく早口で何を歌っているのかさっぱり分からない。「今 何時?」と聞かれていることは間違いないのだが、「そうねだいたいね」とか「ちょっと待ってて」とか「まだ早い」とか、まったくまともに答えてはいない。音楽性は完全に新しく、それまでに聴いていた日本のポップスとはまったく異なるもののように思えた。「胸騒ぎの腰つき」というフレーズがまた、当時の小学6年生にはよく分からないのだが、はじめのうちは「胸騒ぎ残しつき」と歌っているのかと思っていた。「残し」の後の「つき」がまったく分からないのだが、自分自身がまだ知らないだけで、大人の使う言葉でそういうのがあるのかもしれない、程度に思っていたのだった。

サザンオールスターズは当時からテレビにもよく出ていたのだが、ランニングシャツのような服装で、桑田佳祐はあの早口で歌をまくしたてる。当初はコミックバンドのようなものにも思われていた。特にギャグの要素が入っている訳ではないのだが、それまでまったく前例がないような音楽性でありパフォーマンスでもあったので、とにかくこれは何か不真面目なものなのではないかと認識したし、それゆえに小学生の間でも次第に評判になっていった。

この曲は最終的にオリコン週間シングルランキングで最高3位を記録しているのだが、すぐにものすごく売れた訳ではなく、じわじわと順位を上げていったのだった。ちなみに初めて10位以内にランクインしたのが9月11日付で、最高位を記録したのが10月16日付である。8月にはビリー・ジョエルの「ストレンジャー」が洋楽としてはかなりの大ヒットとなる、オリコン週間シングルランキング最高2位を記録している。

私もラジオから流れる「勝手にシンドバッド」をカセットテープに録音し、それを聴きながら歌詞の解析に努めた。小刻みに一時停止ボタンを押しては紙に聴き取った歌詞を書いていったのだが、まず出だしの「砂まじりのチガサキ」というところからして意味が分からない。その後、西武百貨店のレコード売場でシングルを買い、歌詞カードを見て「チガサキ」は「茅ヶ崎」で、東京にはおそらくそういう地名があるのだろう(実際には神奈川だが)と理解したのだった。とにかく、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」は旭川の小学性に対してもセンセーションを巻き起こしたのだが、その印象というのは多分にコミックバンド的なものであったことは否定できない。

続いて、11月25日に次のシングル「気分しだいで責めないで」をリリースするのだが、「勝手にシンドバッド」と同じ路線というか二番煎じ的な雰囲気の曲であった。前作の余波でオリコン週間シングルランキングで最高10位とそこそこ売れはしたものの、トーンダウンは否めなく、おそらくこのままフェイドアウトしていくのではないか、という感じはなんとなくしていた。それでも、私にとってサザンオールスターズとはエキサイティングな存在ではあったため、1979年のお年玉でこのシングルも買った。「ザ・ベストテン」では桑田佳祐が「ノイローゼ」と叫びながら、この曲を歌っていた。

ニューミュージックブームで、その冬はゴダイゴの「ガンダーラ」やアリスの「チャンピオン」が大ヒットしていたのだろうか。また、北海道民にとっては地元の英雄でもある松山千春が「季節の中で」によって本格的に全国でもブレイクしたことも強く印象に残ったのではないだろうか。元旦には甲斐バンド「HERO(ヒーローになる時、それは今)」をフィーチャーした腕時計のテレビCMが民放各局から一斉に放送された。このマーケティングは少なくとも当時の私の周りに対しては大きな効果を発揮したといえる。我々は中学校入学を数ヶ月後に控えていた訳だが、お祝いに買ってもらうのはデジタル腕時計である場合がひじょうに多かった。それで、時計店からカタログをもらってきたりして、どれが良いだろうかと見比べていたのだった。そんな憧れのアイテムのCMに出演し、歌も歌っている甲斐バンドの存在は、一気にカッコいいものになった。そして、オリコン週間シングルランキングでも1位に輝いたのであった。

甲斐バンドはこの時点ですでにかなりのキャリアがあり、ヒット曲も過去にあったのだが、旭川の小学6年生のほとんどはそれを知らなかったので、また新しいニューミュージックのバンドが登場したというようなもので、すでにトーンダウンしていたサザンオールスターズよりも輝かしく見えた。

私が中学校に入学する数日前、3月25日にサザンオールスターズは2枚目のシングルとして「いとしのエリー」をリリースした。ラジオで聴いた最初の感想は普通のバラードだな、というようなもので、サザンオールスターズの魅力であるお祭り騒ぎ的なところが一切感じられない。これは売れないのではないかと思ったのだが、やはり当初はそれほど売れていなかったようで、少しずつチャートの順位を上げていった。個人的にもラジオで耳にする度に、実はこれは良い曲なのではないか、と思うようになっていった。特に、「よりそう気持ちがあればいいのさ」のところのメロディーなど、日本のポップスにはあまりないタイプなのではないか、などと感じてもいた。

そして、いつの間にか「いとしのエリー」はめちゃくちゃ良いバラードというような評価になっていて、オリコン週間ランキングでは最高2位、「ザ・ベストテン」では7週連続1位(年間2位)に輝いたのであった。ある日の朝、一緒に学校に行こうと友人の家に寄ると、まだ準備が整っていないとかでなかなか出て来なかったのだが、その間、姉の部屋と思われるところからはレコードに合わせて「いとしのエリー」を熱唱する様子が聴こえてきていた。その前夜に旭川市民文化会館でサザンオールスターズのコンサートがあったらしく、それに行ってきた興奮冷めやらぬ、という状態だったのだという。

という訳で、サザンオールスターズはつい1年前のコミックバンド扱いから、すっかり若者が共感して聴くタイプの旬なバンドというイメージになっていた。次のシングルは既発のアルバム「10ナンバーズ・からっと」から「思い過ごしも恋のうち」だったのだが、これもオリコン週間シングルランキング7位、「ザ・ベストテン」4位のヒットを記録する。

この曲はアップテンポではあるのだが、デビューから2曲のお祭り騒ぎ的な感じとは違い、片想いの切なさという若者がひじょうに共感しやすいテーマを扱っていたところがまたとても良かった。平日の夕方にHBCラジオで放送されていた「ベストテンほっかいどう」などでよく聴いていたが、中学1年なので片想い的なことも一応はしていて、「思い過ごしも恋のうち」か、などとセンチなため息をついたりもしていた。

そして、10月25日にリリースされた、久しぶりにまったくの新曲となるシングル「C調言葉に御用心」は、オリコン週間シングルランキング、「ザ・ベストテン」共に最高2位のヒットを記録する。タイトルの「C調」は「調子いい」を逆さまにしたものではないかと思う。当時、日清焼きそばUFOのテレビCMなどにも出演していたような気がする。

サザンオールスターズのこの頃の曲には、恋をする者のどうしようもない情けなさのようなものが表現されていたような気もして、そこがたまらなく良かったとも思える。この曲などはイントロで桑田佳祐が勢いよく「アイ!」などと叫んではじまり、都会的でひじょうにカッコよくなりがちでもあるのだが、歌の入りが「いつもいつもアンタに迷惑かける俺がばかです」である。そして、サビが「たまにゃ making love」、中学1年で英語を習いたてなのでこれはどういう意味なのだろうと調べると、「making love」愛をつくるということが「セックス」を表すのだということを知ることになる。「そうでなきゃ hand job」、手の仕事とは一体なんだろうと思い、これも手を使ってそのようなことをすることなのだという結論に達することになる。つまり、「making love」が諸事情によりできないのだとすれば、せめて「hand job」ということなのだろう。そして、「夢で I’m so sad」なのだからとても寂しいと。なぜか「今夜あたりは裸でいる」ことに加えて、「最高シュールな夢が見れそうね」と来るわけである。

それから、「胸をつかみうなじを味わい やせた腰をからめて」以降に関しては13歳の男子中学生(しかも校則により坊主頭)にとっては、まったく想像の中でしかないまぼろしの世界であり、このちょっと変になりそうだがなんか良いなと思えるような感じがたまらず、どうしてこんな曲が書けるのだろうとシビれながらも悶絶していた。ここまでのすべてのシングルとアルバムからセレクトした何曲かを収録した「ベスト・オブ・サザンオールスターズ」というアルバムがカセットのみで発売され、これを私はお正月のお年玉で買った。

1980年代が幕を開け、元旦には沢田研二のシングル「TOKIO」がリリースされた。作詞はコピーライターの糸井重里、東京はスーパーシティ、TOKIOである。その未来的なイメージを落下傘を背負ったド派手な衣装を身に付けた沢田研二が歌う。同じく東京を「TOKIO」と表現したのが、YMOことイエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」で、シンセサイザーを用いたこれまでにない音楽はテクノポップと呼ばれ若者を魅了する一方で、ちょっと付いていけない大人達も少なくはなかったのではないか。

さて、サザンオールスターズだが年明けからメディアでの出演を控え、音楽制作に集中していくというシフトをしていく。テレビには出ない分、シングルはハイペースでリリースしていくということである。しかし、セールスは如実に落ちた。「涙のアベニュー」は素晴らしいバラード曲だったが、オリコン週間シングルランキングでの最高位は16位と、初めてトップ10入りを逃がした。それでも、この曲を収録したアルバム「タイニイ・バブルス」は初のオリコン週間アルバムランキング1位を記録するなど、アルバムを買うようなコアな層の人気は衰えていなかったと思われる。

この「タイニィ・バブルズ」と同日に発売されたシングルが「恋するマンスリー・デイ」で、テーマは女性の生理というもの。収録アルバムが同日発売ということも影響したとは思うが、オリコン週間シングルランキングでの最高位は23位とさらに低迷した。当時、私が通っていた中学校に行く途中に街のレコード店があり、陳列されているジャケットが表からも見えるのだが、当時のサザンオールスターズはハイペースでシングルをリリースしていたので、それを確認することにも役立った。

個人的には中学2年で自意識過剰にも拍車がかかり、いよいよ異性にモテたい気分も上昇気流にのっていた時期である。テクノブームではみんながYMOを聴いているのでプラスチックス、洋楽もそろそろ聴きはじめなければとポール・マッカートニーやビリー・ジョエルのレコードを買ったりもしていた。この頃、サザンオールスターズのレコードは買わなくなっていたにもかかわらず、なぜかサザンオールスターズのロゴが入った財布は愛用していた。そして、北海道の有名なレコード店チェーン、玉光堂のキャンペーンでステッカーがもらえる企画で、特にファンでもなんでもないのに松田聖子のものを選んだ。デビューしたばかりだったが、田原俊彦と共にアイドルポップスの復権を担っていきそうな気配はしていた。カセットテープのテレビCMに山下達郎が出演し、お茶の間に流れた「RIDE ON TIME」はオリコン週間シングルランキング最高3位のヒットを記録、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介らによる新感覚の漫才が若者達の間でブームになっていた。

サザンオールスターズは次のシングル「いなせなロコモーション」ではライブの模様がテレビで中継されたりもして、オールディーズ調のポップな感じも手伝い、オリコン週間シングルランキング16位と少し持ち直すが、次の「ジャズマン(JAZZMAN)」が33位、さらに「わすれじのレイドバック」が41位と、わずか1年にしてシングルのヒットからすっかり縁遠くなってしまった。

そして、11月21日にリリースされた「シャ・ラ・ラ/ごめんねチャーリー」の両A面から「シャ・ラ・ラ」をラジオで聴いて、これはかなり良いのではないかと思った。年の瀬に恋人の大切さを実感するという内容でクリスマスソングの要素もあり、桑田佳祐と原由子とのデュエットの箇所もある。それでも、オリコン週間シングルランキングでの最高位は29位と、シングルのマーケットにおけるアーティストパワーが落ちていたように思える。このシングルがリリースされた数週間後に、ニューヨークでジョン・レノンが凶弾に倒れる。

そして、1981年がはじまるのだが、寺尾聰「ルビーの指環」や大滝詠一「A LONG VACATION」やイモ欽トリオ「ハイスクール・ララバイ」が売れた年で、前の年の年間アルバムランキングで10位以内に3タイトルをランクインさせたYMOの勢いはセールス面に限っていえば早くも落ちていた。サザンオールスターズは6月21日に前作から7ヶ月ぶりとなるシングル「Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)」をリリースする。ラジオでもよくかかっていたし、旭川のイトーヨーカドーの地下にあった玉光堂でも聴いた覚えがあるが、当時のメインストリームのヒット曲とはひじょうに乖離しているように感じられた。

歌詞の中ではジョン・レノンを射殺したといわれる容疑者の名前が出てきたり、マイルドな毒づきや弱気のようなものも感じられる。そして、放送禁止用語を英語の歌詞のふりをして放り込むという手法である。「Up & down, inside out」、そして「You & me」は分かるのだが、「Oh, man go」とは一体どういう意味なのだろうか。

シングルの最高位は49位と過去最低を更新するが、この曲を収録したアルバム「ステレオ太陽族」は6週連続1位、シングルよりもアルバムの方が売れる実力派アーティストという感じになっていた印象がある。桑田佳祐のソングライターとしての実力もすでにひじょうに評価されてもいて、前年には「タイニィ・バブルズ」に収録された「私はピアノ」を高田みづえがカバーしてヒットさせたりもしていた。「ステレオ太陽族」収録曲の中でもバラードの「栞のテーマ」は特に名曲といわれ、シングルかっともされたが、最高44位止まりであった。

サザンオールスターズというバンドはもうこういう感じでいくのだろうとなんとなく感じていたのだが、年が明け、1982年1月21日、松田聖子「赤いスイートピー」と同じ日にリリースされた「チャコの海岸物語」はこれまでとはまたまったく違ったタイプの楽曲であった。カモメの鳴き声のSEからはじまり、昭和歌謡のようなメロディー、歌い方もなんだかわざと下手に歌っているようにも聴こえる。当時のオリコン週間シングルランキングでは松田聖子、田原俊彦、近藤真彦のうちいずれかの曲が1位になっていることが多く、アイドルポップスは完全に復権したように思われた。「チャコの海岸物語」における桑田佳祐のボーカルは、田原俊彦を意識したものだともいわれていたような気がする。

このどこまでが冗談で本気なのかよく分からなくもある楽曲がサザンオールスターズにとって久々の大ヒットとなり、オリコン週間シングルランキングでは2位、「ザ・ベストテン」では1位に輝くこととなった。桑田佳祐と原由子との結婚という話題もあり、なかなかな祝祭ムードでもあったような気がする。この頃、忌野清志郎+坂本龍一の「い・け・な・いルージュマジック」がオリコン週間シングルランキングで1位を記録するなど、ヒットチャートがなかなか面白いことになってもいたのであった。

私はといえば高校に入学し、前の年に発売された大滝詠一「A LONG VACATION」からこの年の山下達郎「FOR YOU」、大滝詠一・佐野元春・杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」、佐野元春「SOMEDAY」などを好んで聴いていた。いわゆる現在でいうところのシティ・ポップが若者にとって旬の音楽だった時代である。サザンオールスターズも好きだったのだが、もう少し俗っぽい感じというか、そのような印象であった。5月21日に前作とは別路線の「匂艶 THE NIGHT CLUB」をリリースすると、オリコン週間シングルランキングで最高8位と手堅くヒットさせた。「Night Clubで男も濡れる」「Night Clubは女も立たす」といった絶妙な下ネタを入れてくる手法も健在である。

田中康夫が「なんとなく、クリスタル」で文藝賞を受賞したのが1980年、単行本が出版され、ベストセラーとなるのが翌年である。サザンオールスターズの音楽については、現代の春歌(猥褻な歌詞が特徴の歌)に過ぎないというようなことを書き、桑田佳祐は雑誌の連載コラムで田中康夫のことをディスるというようなことがあったりもした。「Oh, man go」VS「ペロペロちゃんグリグリちゃん」といったところだろうか。

「チャコの海岸物語」は収録しなかったが「匂艶 THE NIGHT CLUB」は収録したアルバム「NUDE MAN」はやはりオリコン週間アルバムランキングで1位(年間3位)、シングル曲以外にもCMに使われたり、「夏をあきらめて」を研ナオコがカバーしてヒットさせたりもした。

そして、10月5日には青春時代を懐かしむバラード「Ya Ya(あの時代を忘れない)」をリリースし、オリコン週間シングルランキングで最高10位を記録した。歌詞には桑田佳祐らが所属していた青山学院大学の音楽サークル、BETTER DAYSの名前が出てきたりもする。個人的にはこの勢いで新曲のバラードがシングルで来たら、「いとしのエリー」ぐらいのヒットになるのではないかとも思ったのだが、実際にはそうでもなかった。それでも、リリースしたシングルすべてがトップ10入り、アルバムは当然のように1位という、実に輝かしい年だったとはいえる。

1982年には中森明菜、小泉今日子、早見優、堀ちえみ、石川秀美といった女性アイドル歌手がデビューし、前年の秋にデビューした松本伊代も合わせて「花の82年組」と呼ばれたりもした。80年デビューの松田聖子、河合奈保子、柏原芳恵、角川事務所で女優としての活動がメインの薬師丸ひろ子、原田知世も含め、間もなくヒットチャートを女性アイドル達が席巻していくことになる。YMOを中心としたテクノブームは終焉して久しかったが、その影響は歌謡界に及び、後にテクノ歌謡と呼ばれるような音楽が次々と生み出されるようになる。そして、YMOは本家自らがテクノ歌謡化した「君に、胸キュン。」をヒットさせると、この年限りで解散ならぬ散開をした。

サザンオールスターズは1983年に「ボディ・スペシャルⅡ(BODY SPECIAL)」をリリースすると、オリコン週間シングルランキングで最高10位と、4枚連続してのトップ10入りを果たす。ジャケットはトップレスのヌード写真、歌詞には「愛し君の shyなMan Callで」とやりたい放題である。

7月5日にリリースされたアルバム「綺麗」にこの曲は収録されず、同日に「EMANON」がシングル・カットされたが、さすがにアルバムと同日発売なので最高位は24位と久々にトップ10入りを逃がした。アルバムは当然のように1位(年間5位)である。このアルバムでは音楽的実験がいろいろと行われていて、「ミュージック・マガジン」の中村とうようも絶賛していたのだが、一方で「そんなヒロシに騙されて」を高田みづえがカバーしてヒットというような大衆性もあった。評価もセールスも高いレベルで拮抗しているという、ひじょうに理想的な状態にあったといえるのではないか。個人的に最も好きなサザンオールスターズのアルバムがこの「綺麗」なのだが、それには他の理由もあって、この年の夏休みに札幌の真駒内屋外競技場というところで、RCサクセションとサザンオールスターズとの対バンというすごいものを観ていたのだ。

それまであまり絡みもなかったのか。事前には忌野清志郎のプロレス的な挑発がファンの曲解によって桑田佳祐に伝えられるなどもして、やや険悪気味なムードも漂ってはいたのだが、ライブそのものはご機嫌であり、最後は両バンドのメンバー入り乱れての「雨あがりの夜空に」で、忌野清志郎と桑田佳祐が互いを讃え合うという大団円であった。この日、桑田佳祐はRCサクセションのステージを観て、完全に負けていると感じ泣いたと、打ち上げで語っていたらしい。

さて、シングル・カットされた「EMANON」だがAORというかシティ・ポップというか、ひじょうに洒落た音楽性を持つ曲であり、当時の日本の流行歌とは程遠いような印章もある。昨年の「レコード・コレクターズ」のシティ・ポップ特集では、この曲が取り上げられてもいたのだが、たとえば同じアルバムからだと「サラ・ジェーン」など、シティ・ポップとしてのサザンオールスターズという切り口もいろいろ面白いかもしれない。

この年は11月5日に「東京シャッフル」をリリース、これはオリコン週間シングルランキング23位で、またアルバムアーティスト的な感じになっていくのかな、というような予感をいだかせながら、それでもこの曲で出場した「NHK紅白歌合戦」ではエンターテイナーぶりを見せつけたりもしていた。

1984年はチェッカーズと吉川晃司がブレイクし、女性アイドルでは岡田有希子と菊池桃子が活躍した年である。他には安全地帯、THE ALFEEらの躍進が見られ、中森明菜、小泉今日子がアーティストパワーを増した印象がある。一方で、小林麻美「雨音はショパンの調べ」、高橋真梨子「桃色吐息」といった大人向けの楽曲がヒットしたりもした。

そして、サザンオールスターズはアルバム「人気者で行こう」からAOR/シティ・ポップ路線の「海」をシングル・カットする予定だったようだが、桑田佳祐の強い要望でテクノポップ的でもある「ミス・ブランニュー・デイ」をシングルとしてリリース、この采配は見事に当たり、アルバム発売後もロングヒットを続け、オリコン週間シングルランキングで6位、「ザ・ベストテン」では3位を記録した。

10月21日には全編英語詞の「Tarako」をリリース、当時、アメリカ進出を狙ってもいたという。この曲はオリコン週間シングルランキングで最高11位を記録した。

そして、時は1985年、全力疾走してきたよね。という感じで、私は旭川の高校を卒業する少し前に大学受験に失敗し、春からは東京都文京区千石の大橋荘で初めての一人暮らしをすることになるのだった。

サザンオールスターズは5月29日に「Bye Bye My Love (U are the one)」をリリースし、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録、「ザ・ベストテン」では3週連続1位だった。この年、「ALL TOGETHER NOW」というライブイベントが開催され、はっぴいえんどが再結成したりニューミュージックの葬式などといわれたりもしたらしいが、個人的にはサザンオールスターズと佐野元春が共演して、桑田佳祐がラジオ番組で佐野元春のことを讃えていたことがとてもうれしかった。

お盆休みに何日か帰省したりもしたのだが、夏は予備校の夏期講習に通っていて、自習室でも勉強をしていたため、「夕やけニャンニャン」は春先ほどは観なくなっていた。この番組で全国的にも本格的にブレイクしたとんねるずは冠番組がはじまったりもしたが、予備校の教室では男子生徒達がとんねるずの人気は一過性のものであり、ビートたけしのように長続きはしないだろう、というようなことを言っていた。

そして、夏の終わりはいつもとても寂しい。少しだけ実家に帰り、家族や高校時代の友人と会ってきたことがさらにその思いを加速させた。日当たりの悪い和室の畳の上にうつ伏せになり、ラジカセをつけているとサザンオールスターズの新曲「メロディ(Melody)」が流れた。

「いい女には forever 夏がまた来る 泣かないで マリア いつかまた逢える」

あーなんて優しい歌なのだろう、というようなことを思い、アルバム「KAMAKURA」の発売を待った。この曲はオリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では1位を記録した。同じ頃、FMラジオを聴いていると、どこか実験的なところも感じさせるサウンドで、キュートでクールな女性ボーカルが「あたま割れちゃいそうよ ひどい二日酔い こんな日に 恋におちるなんて なんてことかしら」とか歌っている斬新な曲がかかり、わりと衝撃を受けた。ピチカート・ファイヴのデビュー・12インチ・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」はサザンオールスターズ「メロディ(Melody)」と同じ1985年8月21日の発売であった。

そして、9月14日に2枚組アルバム「KAMAKURA」がリリースされた。予備校で前期に近くに座っていたことから話すようになった男子は千葉県の松戸というところから通っていた。サザンオールスターズの音楽を好み、「ふぞろいの林檎たちⅡ」に心を動かされたりしているようなタイプであった。大橋荘は壁がひじょうに薄い構造になっていたため、ステレオの持ち込みや友人を泊めることなどが禁止されていた。レコードプレイヤーとラジカセは持って来ていたのだが、接続がうまくいかず、ひじょうに小さな音でしか録音できない。それで、友人の家のステレオでカセットテープに録音してもらい、それをウォークマンやラジカセで聴いていた。

サザンオールスターズは好きなのだがお金が無くて「KAMAKURA」が買えないということだったので、私が買ったものを貸すことになった。その際、松戸に泊まりにも行った。団地が立ち並んでいて、独特だなと感じた。彼の部屋にはとんねるずのアルバム「成増」があり、石橋貴明の「ア~ヌス」というギャグを気に入っていた。「オレたちひょうきん族」でやっていた村上ショージの「何を言う」もである。

後期に私はクラスが変わっていたので、そこで知り合った仲間達と神保町などで遊ぶようになり。彼とはあまり会わなくなった。それで、「KAMAKURA」も結局、帰してもらっていないのだが、翌々年の夏休みに帰省した時に旭川のマルカツデパートかどこかでやっていた中古レコードのバーゲンで1,000円で買った。2枚組だけあって、バラエティーに富んだとても充実したアルバムだと感じた。オリコン週間アルバムランキングでは7週連続1位、年間4位であった。ちなみにその年の年間トップ3は、井上陽水「9.5カラット」、ワム!「メイク・イット・ビッグ」、安全地帯「安全地帯Ⅲ~抱きしめたい」である。

大学受験が近づくと、現実逃避するかのように巣鴨駅前の地下にあった純喫茶あべにゅーで無料サービスだったコーヒーのおかわりを繰り返し、高島平のブライアン・フェリーと私が勝手に呼んでいた男とウォークマンのイヤフォンを片耳ずつにあてて、カセットテープを聴いていた。内容は音楽ではなく、数時間前に大橋荘の私の部屋で埼玉県の大宮から通っていた男をまじえて3人でやっていた歌のしりとりを録音したものである。そこで、高島平のブライアン・フェリーと私が勝手に呼んでいた男は「BAN BAN BAN」という曲の一部を歌った。私はその曲を知らなかったので、一体何なのか聞いてみたところ、桑田佳祐が新しく結成したKUWATA BANDの新曲なのだという。随分、直球なバンド名だなと感じたのと、ローマ字ではなく漢字とカタカナで桑田バンドなのだとその時には思っていた。原由子の産休のため、サザンオールスターズがバンドとしての活動を休養することによって、このプロジェクトが始動したということである。

次にサザンオールスターズが新曲をリリースするのは1988年6月25日の「みんなのうた」だが、それまでの間にはあまりにもいろいろなことが変わりすぎてしまっていた。

「ザ・ベストテン」では何度も1位になっていたものの、この時点でサザンオールスターズはオリコン週間シングルランキングで1位になったことがなく、それが初めて達成されるのは、1989年の「さよならベイビー」によってであった。

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