1986年の春休みの思い出について

正月から新田恵利「冬のオペラグラス」、うしろゆびさされ組「バナナの涙」、国生さゆり「バレンタイン・キッス」など、おニャン子クラブ絡みの曲がヒットし続けていたのだが、吉沢秋絵「季節はずれの恋」はB面の「会員番号の唄」を目当てに買った人が多かったように思える。

大学入試の結果発表があり、思い通りになった人やならなかった人などそれぞれではあったのだが、とりあえず葛飾区の球場に集まって野球をやっていた。高島平のブライアン・フェリーと呼ばれていた男が、甲斐バンドの解散を悲しんでいた。彼の家に遊びに行くと、母親が寿司を取ってくれたり肉の万世のチャーハンの素をお土産にくれたりしたのでとても良かった。高島平の団地は近未来的だと思った。彼とは予備校の帰りによく神保町などをぶらぶらしていたが、当時はレコードを売っている店も少なくなかった。店頭に新人女性アイドルのポスターが貼られている訳だが、高島平のブライアン・フェリーは「オレ、こいつ知ってる」と言ったきりすっかり無口になった。二人の間にかつて何かがあったと思われる。さすが東京だな、と感じたのだった。

それからみんなでスキーに行こうという話になった。北海道出身の私にとって、スキーとはもっとカジュアルに行くものという印象だったのだが、なんだかやたらと気合いが入っている。お茶の水のヴィクトリアでウェアーや板を見たりしていた。私はレンタルをする気しかなかったので、とりあえず付き合いはしたもののあまり真剣に見てはいなかった。夜に新宿の広場のようなところに集合すると、そこにはたくさんのバスが停車していた。そのうちの一台に夜通し乗って、朝早くにに目的に着いたのではないだろうか。

野沢といって、長野県の温泉街だということであった。漬物の野沢菜はここから来ているらしいというような話になって、確かにすべての食事に野沢菜が付いていた。そして、温泉の素のようなものをみんなお土産に買っていた。驚いたのはスキー場にディスコがあったことである。宿では大部屋にみんなで泊まったのだが、「中島みゆきのオールナイトニッポン」が聴きたくてラジオを持参している者がいたものの、私をはじめ夜中にギャーギャー騒いでいたため、まったくそれどころではなかったのではないかと思われる。映画「私をスキーに連れてって」が公開されヒットしたのはこの翌年の秋で、スキーは当時の若者達にとって流行のレジャーだったと思われる。

当時、住んでいた大橋荘というアパートは都営三田線の千石駅と山手線も通っている巣鴨駅の間ぐらいにあったのだが、DISC 510というレコード店にはよく行っていた。またの名を後藤楽器店であり、後藤だから510なのであった。まったくの余談だが幡ヶ谷に住んでいた時に通っていた美容室はカットハウス141であり、オーナーが石井なので141だということであった。

DISC 510はCDが売れなくなるにつれ、演歌色を強めて行ったのだが、数年前についに閉店してしまった。しかし、私が近くに住んでいた80年代半ばには普通の街のレコード屋さんであり、若者達も働いたり買いに行ったりしていた。ある日、私がレコードを見ていると、常連らしい女子大生ぐらいの女性が「ねーぇ、なんかおすすめのレコードなぁーい?」みたいなことを言っていて、同じぐらいの年代の男性店員が「あるよ、最高のレコードが」と言って、Toshitaro「Am9にジェイ」を薦めたりもしていた。

私もこの店ではいろいろなレコードを買ったのだが、大学に入学したら引っ越すことは決めていたので、もうここに来ることもなくなるな、などと思いながらパブリック・イメージ・リミテッドの「ALBUM」を買った。ハード・ロックからの影響を受けていて、坂本龍一が参加していることでも少しは話題になっていた。その時、岡田有希子の新曲「くちびるNetwork」がかかっていて、この曲で初のオリコン1位を記録したということであった。これが彼女の生前最後のシングルとなった。

「ロッキング・オン」を買うと、ローリング・ストーンズの新しいアルバム「ダーティ・ワークス」の広告が載っていた。インターネットも携帯電話も無かった時代、レコード会社は電話で新曲を聴かせるというサービスを行ってもいた。このローリング・ストーンズの新作についても、電話をかけると発売に先がけて少し聴くことができるようだった。大橋荘の部屋に電話は引いていなかったので、10円玉を握りしめて大鳥神社の向かい側の公衆電話からその電話番号にかけてみた。音質はひじょうに悪い訳だが、それでも聴こえてきた「ハーレム・シャッフル」では、ローリング・ストーンズが本来に持ち味であるロックンロールに回帰しているようにも思えた。

少しだけ旭川の実家に帰り、高校時代の友人と「ファンダンゴ」という青春映画を観に行ったりもした。「ダーティ・ワーク」が発売されたので、小学生の頃からよくレコードを買っていたミュージックショップ国原で買った。日本盤には赤い透明のビニールのようなものが、ジャケットにかかっていたように思える。いまやそれほど評価が高くないアルバムのような気もするが、当時はローリング・ストーンズがヒップホップの要素も取り入れた「アンダーカヴァー」をリリースしたり、ミック・ジャガーのソロアルバム「シーズ・ザ・ボス」が私は好きだったのだがコンテンポラリーなサウンドに寄せすぎていて、本来の魅力が生かされていないと捉えられがちだった後ということもあり、これぞ原点回帰、ローリング・ストーンズの真髄はやはりロックンロールだ、というような感じで盛り上がっていた印象はある。後は、長年一緒に活動をしていたキーボード奏者が亡くなったことを受けて、追悼の意志が込められているという話もあった。

一年前までは私の部屋だった実家の2階で聴いているうちにうとうとしていて、気がつくとすっかり薄暗くなっていた。その時にはもうすでに妹の部屋になっていたのだが、帰っている間は使ってもいいことになっていた。「夕やけニャンニャン」では卒業する中島美春が、「じゃあね」と見送られていた。私は4月から大学生になるというのに、松本伊代は「Last Kissは頬にして」で「女子大生は今夜でもう卒業よ」と歌っていた。この曲については、「人影のないカフェバーで 最後に聞いたデュラン・デュラン」という歌い出しのフレーズが松本隆にもかかわらず俗っぽくてかなり好きだった。

西武百貨店のディスクポートでは、小泉今日子の「なんてったってアイドル」がかかっていた。5ヶ月前の真夏の日に2階にあるレストラン、アメリカンボックスで一緒に食事をし、映画を観てジャズ喫茶にも行ったがもちろん何もなかった元同級生の女子とはずっと文通していたのだが、同窓会のような飲み会では恥ずかしすぎて目を合わせることもできず、引っ越し先の住所も教えなかったのでそれっきりである。東京でまだ友達もできずにいた春から初夏にかけてのあの頃、ポスト代わりに使われている大家さんの部屋の縁側の金魚鉢に彼女からの手紙が入っているかどうかは、私にとっての一大事であった。よくもまあ、あのどうでもいいことばかりを便箋何枚にもわたって書いていた手紙に律儀に返事を書いてくれていたものだ。

忌野清志郎とジョニー、ルイス&チャーの「S.F.」、爆風スランプの「青春の役立たず」のシングルも出ていたので買った。忌野清志郎とジョニー、ルイス&チャーの曲は確かアニメに使われた曲だったと思う。爆風スランプは「Runner」がヒットしたりする何年か前で、まだサブカル的に見られてもいた頃だったような気がする。「ロッキング・オン」の渋谷陽一が激推ししていて、「サウンドストリート」のリスナーが選ぶ「ロック大賞」で常連のRCサクセションを差し置いて大賞に輝いたりもしていた。近田春夫原案、手塚眞監督の映画「星くず兄弟の伝説」にも出演していた。この曲はドンパッチという口の中で弾けて、場合によっては口内を痛めかねない特殊なキャンディーのCMソングでもあった。

未来は信じられないぐらいに眩しく輝いていて、サングラスが必要なぐらいであった。やがて激しく打ち砕かれることも知らず。

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