カラオケという文化にまつわる個人的な思い出などについて。

ダフト・パンク解散についてマイルドに感傷に浸ってもいた訳だが、初めて知った曲は「ダ・ファンク」だったなと思い出したついでに、90年代半ばに明大前のカラオケ屋が潰れた後の場所に「ダ・ファンク」というクラブのような店がオープンしたが数ヶ月と持たずに潰れるか業態変更するかして、あっという間に居酒屋になっていたなというようなことを思い出したりもしていた。

それからある日、出社しようと明大前から歩いているとパトカーが数台停まっていたり、地域住民の人達がたくさん路上に出ていたりしてただならぬ雰囲気だったのだが、居酒屋から子供がたくさん出てきて連行されたとか、そういうことを言っている人もいた。その居酒屋はうまかろう安かろう亭という名前で、オウム真理教が経営しているといわれていた。

そんなことはまあいいのだが、その「ダ・ファンク」なのだが、英語表記で「DA FUNK」であり、最後に「!?」か「?!」が付いていたような気もするのだが記憶が定かではない。もちろん一度も行ったことはない。ダフト・パンクの「ダ・ファンク」は1995年の時点でリリースされていたようなのだが、日本ではまだそれほど知られていなかったのではないだろうか。この店名がそれにちなんだものだったのかどうかは定かではない。ビルの地下にあるその場所は現在は炭火焼鳥串善明大前店となっているのだが、某フォロワーさんの「DJブースが串焼きグリルに…(作業の見た目が近い)」というご指摘には舌を巻いた。

そこが「ダ・ファンク」になる前のカラオケ屋には何度も行ったのだが、店名すらまったく覚えていない。カラオケ屋というと今日ではだいたいカラオケボックスのことだと思うのだが、当時は小さなステージの上で知らない人達がたくさんいる前で歌うというスタイルの店もまだひじょうに多かった。客はそれぞれのテーブルで飲食をしているのだが、歌いたい曲と自分の名前を紙に書いて店員に渡し、呼ばれたらステージに出て行って歌うという形式であった。店員は昭和の純喫茶のような制服を着て、タンバリンを叩くなどして盛り上げるという業務があるようなのだが、時間帯が深くなるにつれてどこか投げやりな感覚が程よくブレンドされていくようで、そういったところにもまた味わいがあった。

「渋谷系」が当時いかに一般庶民にまで浸透していたかということを表すエピソードとして印象深い景色も、まさにこの店で見たものである。それは会社の先輩で、植田まさしの4コマ漫画に登場するサラリーマンのような風体をし、見ようによっては永瀬正敏に似ていなくもないのだが、営業のアポイント用に使っている大学ノートの表紙には黒マジックで阪神タイガースのロゴと「猛虎襲来!」と書かれているような人がいた。毎週、月曜に会社に行くと、「お前、昨日のごっつ観たかよ?」と聞かれた。「ごっつと」とは「ダウンタウンのごっつええ感じ」のことであり、私は観ていなかったので「観てないです」と毎週、答えていたのだが、「だからお前はダメなんだよ」と言われていた。「お前、休みの日とか何してるんだよ?」と聞かれたので、正直に「渋谷にCDとか本とか買いにいってますね」と答えたところ、「ほー、お前あれか?渋谷系か?」と言われたりもした。私はフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴやカヒミ・カリィやスチャダラパーなどがわりと好きだったので(オリジナル・ラヴやタヴ・タンバリンズはよく分からなかったが)もしかするとそうなのかな、とも思っていたのだが、「渋谷系」であるためには1991年にDJイベントに行ったりDJ感覚でレコードを買っていたりしなければいけなかったようなので、だとするとそうはいえないのではないかと感じる。

それはそうとして、会社の帰りにまたしても何人かでそのカラオケ屋に行っていたのだが、調子に乗った若者達のグループのうちの一人が「科学忍者隊ガッチャマン」のテーマソングを入れて、「地球は一つ 割れたら二つ おお パンダちゃん パンダちゃん」などとしょうもない替え歌を歌っていた。なぜか店員のうちの一人が奥田民生「愛のために」を熱唱すると、またあの調子に乗った若者がm.c.A.T「Bomb A Head!」をどこかムカつくファルセットを駆使して歌ったりしていて苦々しく感じていた。私はスキンヘッドの上司に強要され、「今夜はブギーバック (smooth rap)」のデュエットを強要されていた。

そして、小沢健二「ラブリー」のイントロが流れてきた。私はフリッパーズ・ギターは大好きだったのだが、この頃、テレビ番組に出て「王子様」とか「仔猫ちゃん」とか言っていたらしい小沢健二についてはちょっと付いていけない感じになっていて、ほとんどちゃんと聴いていなかった。ところが、先に紹介した先輩はパチンコの景品として「LIFE」のCDを手に入れていたらしく、「ラブリー」をしっかりと歌い、「Oh baby」のところで王貞治の一本足打法のジェスチャーをするが、常に盛大にすべっていた。

数ヶ月後、同じ会社でデザイナーとして勤務していた中国人留学生が国に帰らなければいけなくなり、新宿でささやかな送別会を開いた。2次会か3次会でカラオケボックスに行ったのだが、あの先輩は最後に「ぼくらが旅に出る理由」を歌いながら泣いていて、中国人留学生の彼や私もつられて泣いた。

私の母親などは親戚が集まり、酒を飲むと兄や弟や妹(私にとっての叔父や叔母)たちとおそらく昔の歌を合唱したりしていた。学生時代に学校からは禁止されていたが、歌声喫茶なるところによく行っていたそうである。昔の日本映画などを観ても、酒を飲んでみんなで歌うというシーンをよく見かけることがある。

カラオケという言葉を初めて知ったのは70年代の後半、空のオーケストラの略で業界用語のようなものだったのだろう。当時、暮らしていた旭川の豊岡という地域には市民生協というスーパーのようなものがあり、よく分からないヨーヨーのチャンピオンが訪れたりもしていた。そこで本物ではない人が歌ったヒット曲や懐かしのメロディー、あとは童謡とかアニメの主題歌などのカセットテープが安く売られていた。母はよくそういうのを買ってきて、家のステレオやラジカセで流しながら家事をしていたような記憶がある。

その中にカラオケ集などと題したものもあったのだが、要はよくスーパーのBGMで流れているような、ヒット曲のイージーリスニング的なインストゥルメンタルであり、実際の音源からボーカルを抜いたようなものとは違っていた。

カラオケは当初は大人達が演歌やムード歌謡のようなものを歌うような文化だったような記憶があり、若者には浸透していなかったのではないだろうか。バラエティー番組で人間カラオケなるものをやる集団がいて、何人かで分担して楽器の音をすべて口で真似していた。1980年に中学生だった頃、学校でかくし芸大会的なものがあり、私はそういうのに選抜される要員的なアイデンティティーもあったため、4人組でクリスタルキング「大都会」を人間カラオケでやったことがあった。それから40年近く後に、恵比寿のBATICAなどというお洒落な場所で小西康陽がかける「大都会」を聴いた時はわりと感慨深かった。

1985年に高校を卒業し、上京する寸前に旭川のカラオケの店に行ったことはあり、東川から通っていてデュラン・デュランのコピーバンドでベースを弾いていた男がアルフィーやSALLYの新曲を歌っていたことはなんとなく覚えている。しかし、どうやら紋別の看護学校に進学することが決まっていた女子にやたらと絡んでいたらしく、翌朝はおそろしく頭が痛かったりもしたため、その時のことはほとんど覚えていない。

その年の秋か冬ぐらいだったと思うのだが、すでに東京で一人暮らしをしていて、仲間達と新宿のカラオケの店に行った。やはりステージの上で知らない人達の前で歌う形式である。その場で出会った見ず知らずの男が女をナンパして、デュエットしたりもしていたので、大学に合格したら(そう、私は浪人生だったのである!)こういうことができるのかもしれない、と期待に胸をふくらませていた。私は吉川晃司「RAIN-DANCEがきこえる」辺りを歌っていたような気がする。

新宿のカラオケ屋にはその後も何度か行ったのだが、かわいらしい女子高生のような人達が2人組で小泉今日子「渚のはいから人魚」を入れたのはいいのだが、「渚のはいからオカマ キュートなヒップにズッコンバッコン」などとモロな下ネタを駆使した替え歌になっていた。しかし、リュックサックをあんな感じで背負うのはおしゃれで可愛いな、と初めて感じたのはこのうちの一人を見た時であった。

練馬に住んでいてデヴィッド・ボウイが好きだった大学の同級生が面白い娯楽を見つけたというので付いていくと、昼間で中高年の女性ばかりが集う恵比寿のカラオケスナックであった。若い男性は他にまったくいないので、何を歌ってもなかなかモテるということで、実際にそうだった。私はとんねるず「迷惑でしょうが…」などを歌っていたような気がする。

アルバイト先のオーナーに地元(相模原)のカラオケ屋のようなところにやたらと連れて行ってもらったりはしていたのだが、たまたま来ていた若者のグループの一人がBOØWYの「ONLY YOU」を歌っていたので知らない人だったのだがステージに飛び入りして勝手に肩を組んで一緒に歌ったりしていると、彼の彼女風の人から冷静にブチ切れられ、平謝りしたりもしていた。また、数年前にはアイドル歌手としてテレビに出ていたりもした人がその店では働いていて、歌も確かに上手かったのだが、芸能界はとても汚い最低な世界だ、などとぶっちゃけていて刺激的だった。

1989年といえば平成元年だが、今は無きローソン調布柴崎店のアルバイト仲間達とこれも今は無き調布スポーツセンターに良くボーリングをしに行っていたのだが、カラオケボックスのようなものが併設されてもいた。とはいえ、現在のそれのように立派なものではなく、電話ボックスを何回りか大きくしたようなもので椅子すらも無かったような気がする。そこに男女4~5人で入って、プリンセス・プリンセス「M」だとかWink「淋しい熱帯魚」だとかを歌っていたような記憶があるのだが、果たしてあれは現実だったのだろうか。

1991年には六本木の当時はひじょうに有名だったとあるCDショップで契約社員として仕事をしていたのだが、正社員の人達にカラオケに連れて行ってもらえることもあった。ヨレヨレのスーツを着たサラリーマン2人組は、とんねるず的なノリをトレースしたようなところもあり、バブルガム・ブラザーズ「WON’T BE LONG」のイントロが流れると、「HOUND DOGのおかげで紅白出れました」とシャウトしていた。確かにその年、バブルガム・ブラザーズはHOUND DOGが出場を辞退したために「NHK紅白歌合戦」に出場することができたのだが、彼らが六本木のカラオケ屋でそれを言うことに、一体どういった意味があったのだろう。

00年代半ば頃の話だが、GREAT 3の楽曲はDAMやJOYSOUNDにはほとんど入っていなく、有線放送がやっていたUGAではなぜかとても充実していた。ちょうどGREAT 3が大好きだという若者と出会い、UGAが入っているカラオケボックスをわざわざ探して、GREAT 3の曲ばかり歌いまくるという回を開催したりもしていた。

パセラというカラオケボックスでは洋楽がひじょうに充実しているという話があり、会社の何人かで行ったのも00年代に入ってからのことだろうか。私はザ・ストロークス「ハード・トゥ・エクスプレイン」などを軽快に歌っていたり、スリップノット「ピープル=シット」をいわゆるデス声で歌う者がいたりもして面白かったのだが、ザ・プロディジー「ファイヤースターター」を入れた者については、出だしこそひじょうに盛り上がったものの、途中から超絶的に暇になり、もはや誰も聴いていない状態になっていて、こっそりと消している姿に哀愁を感じた。

あとは何の節操もないただのミーハーで、その時に流行っているものに乗っかっているに過ぎない系会社員としても知られる(知らんがな)私は2010年ぐらいにはもちろんAKB48にもハマってすぐに飽きたりもしていたのだが、これもまた会社の人達とカラオケボックスに行き、AKB48が楽曲的にもいかに優れているかというような話もするのだが、本人達が水着で出演している映像を観てエロ目線での論評をする者が後を絶たず、暗澹たる気分になったりもしていた。あと、90年代後半は勤務先のアルバイト達と相模原のカラオケボックスに行って、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT「スモーキン・ビリー」で異常に盛り上がりすぎて、店の人からこっぴどく怒られたなどだろうか。

ヒトカラこと一人カラオケの店に数年前に初めて行ったのだが、歌いたい曲が思う存分歌えてこれは最高なのではないかと思っていたところ、オーディエンスがいなければカラオケはこんなにもつまらない(あくまでも個人的な感想である)ということに気づかされ、予約した2時間を完全に持て余すというようなこともあった。

急激に飽きてきたので、新型コロナウィルスなどもあり近頃は行く機会もまったく無いのだが、最後に個人的にカラオケに行くと歌いがちな何曲かを貼って唐突に終わるのであった。

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