「お笑いスター誕生‼︎」の思い出について。

1981年の土曜日といえば中学校の授業が午前中で終わると家に帰り、昼食とSTVテレビで「お笑いスター誕生‼︎」、それから自転車で旭川の市街地に行き、ミュージックショップ国原で「オリコン・ウィークリー」を買ったり「ミュージック・ラボ」付録の「Billboard HOT 100」が載った紙をもらったり、レコードや本を見たり聴いたりしてから帰宅、夕食後に20時から「オレたちひょうきん族」、いろいろやって夜遅くからラジオ関東(10月以降はアール・エフ・ラジオ日本で「全米トップ40」という流れが定番であった。

「お笑いスター誕生‼︎」は1980年代のある時期に日本テレビ系で放送されていたお笑いオーディション番組で、同系列局で1971年から放送されていた「スター誕生!」のお笑い版といったところである。山口百恵、ピンク・レディー、中森明菜をはじめ数々のスターを輩出した「スター誕生!」は1983年で放送を終えるが、「お笑いスター誕生‼︎」の方はその後も3年ほど放送されていた。「お笑いスター誕生‼︎」は当初、代々木の山野ホールで収録されていたが、1984年の途中からはかつて「スター誕生!」を収録していた後楽園ホールに場所を移した。

1970年後半の時点で、漫才とは主に中高年が楽しむようなタイプの娯楽で、若者は無向きもしないような状態だったという。1979年10月の放送を開始した「花王名人劇場」はそのタイトルの通り、様々なジャンルの名人芸を放送するようなタイプの番組だったというのだが、1980年1月20日に放送された「激突!漫才新幹線」が高視聴率を記録して、これが漫才ブームのきっかけになったといわれているようだ。

当初はあらんどろん、B&B、ツービート、Wヤングの4組で予定されていた企画だというが、その中で最も視聴率が見込めたWヤングの中田治雄が自殺したことによって、頓挫することになった。そして、企画が見直された結果、横山やすし・西川きよし、星セント・ルイスという東西を代表する人気コンビに加え、若手のB&Bという3組が出演することになったという。

漫才ブーム期の漫才にはボケが一方的にマシンガントークをし、それにツッコミが合いの手をいれるというスタイルのものもあり、B&B、ツービート、島田紳助・松本竜助などはその代表格であった。とはいえ、これのオリジネーターがB&Bの島田洋七であることは、ツービートのビートたけしも島田紳助も認めていたという。この3組のツッコミである島田洋八、ビートきよし、松本竜助は漫才中、うなずいているだけではないかなどともいわれ、後に「オレたちひょうきん族」でうなずきトリオを結成、大瀧詠一が作詞・作曲した「うなずきマーチ」でレコードデビューも果たし、オリコン週間シングルランキングで最高55位を記録した。

1970年代が終わり、1980年には沢田研二が派手な衣装で落下傘を背負い、東京をスーパーシティーだと歌った「TOKIO」が元旦に発売され、同じく東京を「TOKIO」と発音した「テクノポリス」などで、イエロー・マジック・オーケストラが空前のテクノブームを巻き起こした。

ニューミュージックが主流だったヒットチャートには、田原俊彦、松田聖子といったフレッシュなアイドルがデビューすることによって、新しい波が起ころうとしていた。テレビからはカセットテープのCMソングとして、従来の日本の流行歌と比べ、極度に都会的な山下達郎「RIDE ON TIME」が流れていた。時代はよりライトでポップな感覚を指向しているようにも思われ、漫才ブームもその中にあったともいえるだろう。

フジテレビ系で1980年4月1日に第1回が放送された「THE MANZAI」にはツービート、島田紳助・松本竜助、 B&B、横山やすし・西川きよし、ザ・ぼんち、星セント・ルイス、中田カウス・ボタンが出演したが、派手なセットや若者だらけのノリの良い観客など、当時としては演芸番組としてすべてが新しかった。これらのほとんどは、島田洋七のアドバイスによるものだったという。

「お笑いスター誕生‼︎」の第1回が放送されたのはこの11日後、4月12日である。番組開始当時は毎週5組のお笑い芸人がネタを披露し、10週勝ち抜くとグランプリ獲得ということであった。この番組で初のグランプリを獲得したのはB&Bで、1980年7月5日放送分においてであった。ほとんど無名の芸人がこの番組によってスターになっていくのがコンセプトだったとは思うのだが、B&Bはこの時点ですでに相当売れていたということができるだろう。

漫才ブームが少しずつ盛り上がってきているのは旭川の中学生にも分かっていたのだが、「THE MANZAI」の第3回が放送されたのが7月1日で、翌日にはクラスでも相当数の者がこの番組のことを話題にし、友人の一人などはみんなが漫才のことを話していてつまらないと、早くも逆張りマイルドアンチ化してすらいたのであった。

というようなことを書いているが、「お笑いスター誕生!!」は北海道でもSTVテレビで放送されていたにもかかわらず、この時点で私はまだその存在すら知らなかったのではないかと思う。私がまだ観ていなかった頃、「お笑いスター誕生!!」にどのような人達が出演していたかについては、後に放送される総集編的な回や出版された書籍などで知ることになるのだが、ここで簡単にまとめておきたい。

春やすこ・けいこは松竹芸能所属の女性コンビで、漫才ブームのわりと中心にいて「THE MANZAI」にも出演していた。漫才界のピンク・レディーなどとも呼ばれていたようだが、松田聖子が新人賞を獲るなどして泣いているところをよく見ると涙が出ていないから嘘泣きでありかわい子ぶっているだけ、というような毒舌漫才の印象が強い。「ハートブレイクホテルは満員」という糸井重里が作詞した曲でレコードデビューしたり、グラビア雑誌でセミヌードになったりもしていた。ひじょうに人気はあったように思えるのだが、「お笑いスター誕生!!」では1週しか勝ち抜いていない。

春やすこ・けいこと同じく番組の第1回から出場し、アマチュアながらも3週目まで勝ち進んだのがギャグ・シンセサイザーである。コンビ名からして時代を感じさせるのだが、暴走族をテーマにしたコントなどをやっていたような気がする。「気分はとってもハッピーボーイ」というようなギャグがあったと思う。何度か再チャレンジした末に10週勝ち抜きグランプリを手中にするが、後に交通事故を起こし剥奪されていた。所ジョージと同じ事務所、マイルストーンに所属しプロになったが、後に解散、引退している。

酒井くにお・とおるは兄弟コンビで、兄のくにおがおかまキャラのようなものをやっていた。和服を着て振り付きで「ミラーマン」の主題歌を歌ったりしていた記憶がある。兄のくにおが弟のとおるを呼ぶ時に「とおるちゃん」というのがギャグのようにもなっていた。

マギー司郎はとぼけたマジックで人気があり、「これ〇〇でやった時にはウケたんだけどね」と微妙な地名を出したりするところが特徴であった。

B&Bはその後あたりに出たようなのだが10週ストレートで勝ち抜き、グランプリ獲得と貫禄を見せつけていたようだ。当時のダイジェスト的な映像を観ると、アイドルのような人が笑っているところが映っていたりもするのだが、私が観るようになってからもうそういうのは無かった。

ミスター梅介は六法全書を片手に法律に関する漫談をやっていたのだが、なぜかインスタントラーメンの種類を全部いうというような芸もやっていた。司法試験を受けては落ち続けているという設定であった。「お笑いスター誕生!!」も落ちては再チャレンジを繰り返し、トータルでかなりの回数、出演していたのではないかと思う。

青芝金太・紋太は再チャレンジ後、グランプリを獲得するなどかなりの実力者だったのだが、漫才ブームでブレイクすることはなかった。長嶋茂雄のものまねや、腹をふくらます芸などの印象がある。

月見おぼん・こぼんは現在のおぼん・こぼんだが、B&Bに続く2代目のグランプリ獲得者であった。こちらも10週ストレートである。タップダンスなど本格的なエンターテインメントを取り入れたスマートな芸風という印象があった。

貴明&憲武は、後のとんねるずである。当時はテレビアニメのパロディーやアントニオ猪木、和田アキ子などのものまねをやっていたようだ。私が観るようになってから、とんねるずに改名し、再チャレンジしていたが、後に10週勝ち抜きグランプリを獲得した。改名後、初出演の時に司会の山田康雄が「トンネルを抜けたら、そこはグランプリだった、なんてことになるといいね」というようなことを言っていたような気がする。

コロッケはご存知、ものまねの大御所だが、当初は音楽に合わせ、形態模写だけをやっていて、ひじょうに怪しげな雰囲気を漂わせてもいた。野口五郎「真夏の世の夢」、岩崎宏美「シンデレラ・ハネムーン」などを早送りしたものまねが特にウケていたような気がする。

小柳トムは後のバブルガム・ブラザーズのブラザー・トムだが、警官の格好をしてコントをやっていた。当時はアフロヘアーがトレードマークで、時々、キーボードを弾いたりもしていた。再チャレンジでグランプリを獲得した。とんねるずの石橋貴明やギャグ・シンセサイザーの長谷川嘉昭とよく遊んでいたらしく、とんねるずが司会を務める「うたばん」にバブルガム・ブラザーズが出演した際に、すでに一般人になっていた長谷川も出演し、「お笑いスター誕生!!」時代の思い出話に花を咲かせるようなこともあった。

牧田ヒロシは後に牧田博に改名してからの方がよく出ていたのだが、真面目そうな表情で小型のキーボードをジングル的に弾きながら漫談をやっていたような記憶がある。

ゆーとぴあ、でんでん、海原さおり・しおりは同じ週に初出演しているのだが、私が初めて観たのはおそらくこの回ではないかと思うのである。

ゆーとぴあはすでにかなり売れていたのではないだろうか。漫才ブームの渦中で人気があったコントのグループといえば、ゆーとぴあとコント赤信号のイメージがひじょうに強い。ゆーとぴあの特徴はゴムをくわえさせて伸ばしたところで手を離すことによってダメージを加える、「よろしくね」というキメポーズ、ウケなかった時の「なんだこの静けさは」というギャグなど、いろいろなんとなく覚えているのだが、先生と生徒という設定がやたらと多かったような印象がある。

でんでんは後に味のある役者として成功するが、この頃はキザな漫談をやっていた。ディーン・マーティン「誰かが誰かを愛してる」に乗って登場し、カッコよさげなことを言った後でサングラスを外すと目が細い、というのがお決まりのツカミであった。春風亭小朝と仁丹のテレビCMにも出演していたと思う。

海原さおり・しおりは正統派の漫才という感じであった。ここまで書いてきて気づいたのだが、松竹芸能の芸人はよく出ているのに対し、吉本興業の芸人はこの頃までの段階ではまったく出ていなかったのではないだろうか。

そして、大木こだま・ひかりである。ストレートで10週勝ち抜き、グランプリを受賞するのだが、途中からは放送されていない。「お笑いスター誕生!!」は収録から放送までの期間に少し間があったようだ。大木こだまは現在のようなダミ声風でもねっとりとした話し方でもなく、学芸会で昆布の役をやっていたというギャグや「実はそうですねん」という決めゼリフが特徴のしっかりとした漫才をやっていた。しかし、ひかりがグランプリを獲得した直後の楽屋で、薬物使用によって逮捕されてしまうのである。グランプリ獲得は無かったことにされ、コンビは解散したが、大木こだまは新しい相方と新コンビの大木こだま・ひびきを結成し、長い時間をかけてブレイクを果たした。大木こだまは同時期に「お笑いスター誕生!!」に出演していた海原さおりと、後に結婚した。

大木こだま・ひかりと同じ週に初出演したのが、九十九一(つくもはじめ)である。「お笑いスター誕生!!」では出演者名のテロップに「漫才」「漫談」「コント」「落語」というようにジャンル名がカッコ付きで入るのだが、九十九一のそれは「ダンマイク」であった。ラジオドラマやニュースのパロディー、一人コントなど、とにかくいろいろなことをやり、そのどれもが新感覚でかなり面白い。ある時期からは第2のタモリか、などとも呼ばれ、かなり注目されていた。

9週目で一度は落ちるものの、再チャレンジ後にピン芸人としては初の10週勝ち抜きグランプリに輝いた。私は九十九一が好きすぎて、岐阜放送でやっていたラジオ番組も遠距離受信して聴いていたほどであった。その後、TBSラジオで「パックインミュージック」のレギュラーになり、これにはハガキを送って何度か読まれてもいた。アルファレコードからアルバム「九十九一の部屋」、ネスコなる出版社から「ダイヤル991を廻せ!」という本も発売され、すぐに買った。「今夜は最高!」「TV海賊チャンネル」「笑ってる場合ですよ!」「オレたちひょうきん族」といった番組にもレギュラー出演していた。

ザ・ちゃらんぽらんは「ちゃらんくんでーす」「ぽらんくーんでーす」「2人合わせてちゃらんぽらん」「完璧やないかい」というツカミや、CMなどをパロディーにしたスピーディーな漫才がかなり好きだった。ぽらんは現在のちゃらんぽらん冨吉である。

イッセー尾形は1週目の現場作業員のコントが演技力はおそらくすごいのだが、とにかくまったくウケていないように見え、大丈夫かと思ったのだが合格はして、その後、どんどん面白くなっていった記憶がある。9週目までは勝ち抜いたのだが、何度か再チャレンジするものの、結局、グランプリ獲得とはならなかった。しかし、間違いなく一時代を築いた芸人だということはできるだろう。

1980年に初出演した芸人だけで、これだけいる。漫才ブームは過熱していき、1981年元旦に発売されたザ・ぼんち「恋のぼんちシート」はオリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録する。同じ日にニッポン放送で、「ビートたけしのオールナイトニッポン」がスタートした。

1981年には北野誠が組んでいたまこと&がっしゃん、東京丸・京平、Wコミック、ミヤ蝶美・蝶子、そして、解散したハンダースのメンバー、アゴ勇と桜金造によって結成された、アゴ&キンゾー、シティーボーイズ、横山たかし・ひろし、後に2代目快楽亭ブラックとなる立川レーガン、阪神タイガースの帽子を被って落語をする浮礼家×布(後にポッキー×布に改名。「×布」は「かけふ」と読む)などが出演する。

シティーボーイがシュールなコントでストレートで勝ち抜く途中で、とんねるずが再挑戦、同じ週目で勝ち抜いていくことになり、ついには番組史上初の同じ週に2組がグランプリに挑戦するが、残念ながらいずれも獲得はならず。アゴ&キンゾーはマンガの世界から飛び出してきたようなコントで圧倒的な実力を見せ、審査員のタモリや赤塚不二夫が涙を流して笑っていることさえあった。代表的なギャグは「船橋ヘルスセンター♪」「意外ね、意外ね」などである。

グランプリシリーズは一旦休止し、トーナメント戦的なゴールデンルーキー賞というのが始まり、ここではアゴ&キンゾーととんねるずとがデッドヒートを繰り広げる。どちらも面白かったが、玄人受けならアゴ&キンゾー、アイドル性ならとんねるずというようなところがざっくりとはあり、結果的にアゴ&キンゾーが優勝した。

となると、もうすでに1982年であり、筋肉漫談という新ジャンルのぶるうたす、誰も知らない無名人のものまねを得意とするムッシュ田村、ビートたけしの弟子であるそのまんま東と大森うたえもんのコンビ、ツーツーレロレロ、コミックバンドで後にビートたけしのバックバンドも務めていたような気もする青山三丁目バンド、ニュースパロディーをやっていて九十九一のパクリ疑惑も生まれる司浩司、後にたけし軍団入りするタカ(後のガダルカナルタカ)とポポ(後のつまみ枝豆)のコンビ、カージナルス、水島びんと「オレたちひょうきん族」の懺悔の神様としても知られるブッチー武者とのコンビ、アッパー8、ビジーフォースペシャルのモト冬木の実兄にしてエレキ漫談家のエド山口、女性コンビのピックルス、キモサベ社中、ストレートで10週勝ち抜きグランプリを獲得、日本初のグミ製品らしいコーラアップのCMにも出演していたファニーズ、タージン、ブラック嶋田などが出演する。

1983年には双子漫才師のポップコーン、4コマ漫才なる現在でいうところのショートコントを得意としていたパート2、テレビ朝日で冠番組「ウソップランド」を持つことにもなる怪物ランド、早すぎたシュール漫才コンビ、象さんのポット、笑パーティー、笑ルームなどが出演するも、次第にチャレンジャーの組数は減り、かつて出演していた芸人がネタをやる時間などが増えてくる。漫才ブームがすでに終息していたこともあり、この頃には私もほぼ惰性で観ていたようなところもある。そして、STVテレビが「お笑いスター誕生!!」の放送をやめた。

その後も番組は続いていて、1984年にはブッチャーブラザーズ、かつて一世を風靡した松鶴家千とせ、ぼん&正月、社会派コントとして注目され、「笑っていいとも!」の裏番組の目玉として起用されたこともあるコント山口君と竹田君なども出演していたようである。

1985年にはダウンタウン、ハイヒール、まるむし商店、岡けん太・ゆう太なども出演していたようなので、この頃から吉本興業の芸人も出るようになったのだろうか。NSCこと吉本総合芸能学院が創立されたのが1982年、ダウンタウン、ハイヒールはその1期生であった。当時、オール阪神・巨人がNSCのことを「なんもせえへん知らん奴」の略などと言っていた記憶がある。

この年に私は旭川の高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめることになるのだが、早速、後楽園ホールに「お笑いスター誕生!!」の公開録画を観に行った。その日は新しくはじまるシリーズに先がけて、過去の総集編的なものをやっていたのだった。北海道で放送がされなくなっている間に、こんな人たちが出演していたのかと興味深くVTRを観た。

その後、新しいシリーズに出場する芸人達が登場し、自己PR的なことをやっていたのだが、その中にまだメディアにはほとんど出ていなかったであろうウッチャンナンチャンもいた。ザ・ちゃらんぽらん改めちゃらんぽらんが個人事務所を立ち上げたなどと言っていた。帰りのエレベーターでブラック嶋田と一緒になり、やたらと緊張した。

それから、予備校と受験勉強と東京生活でわりと忙しくなり、「お笑いスター誕生!!」は結局、あまり観なかったような気がする。それでも、ウッチャンナンチャンはわりと面白いなと感じていた。ダウンタウンやハイヒールはこのシリーズには出場していなかった。

そして翌年、1986年に最後の「オープントーナメントサバイバル」ではウッチャンナンチャンが松竹梅、キャラバン、象さんのポットを破って優勝し、9月いっぱいで番組は終了した。この頃には放送時刻が土曜の夕方になっていたのだが、翌週からは「鶴ちゃんのプッツン5」がスタートした。

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