1985年2月に大学受験で東京に来た時の思い出などについて

当時、旭川空港からはまだTDAこと東亜国内航空のYS-11しか飛んでいなかったのかどうかについてはいまとなってはよく思い出せないのだが、いずれにしても大学の入学試験を受けるため飛行機に乗り、羽田空港で降りたことには間違いがない。それから東京モノレールで浜松町まで行くわけだが、私は受験に先がけて髪を短めに切っていたのだった。それについて同じく東京の大学を受けるため一緒に来ていた同級生が、風見慎吾に似ているなどと言ってからかってきた。

風見慎吾は萩本欽一の番組に出てブレイクし、「僕笑っちゃいます」をヒットさせたのだが、この頃はブレイクダンスを取り入れた「涙のtake a chance」がヒットしていて、テレビの歌番組などにも出演していた。その時の髪がやや短めだったのである。

宿泊するホテルは同級生などとは異なっていて、私は品川プリンスホテルに泊まることになっていた。現在ならば羽田空港から京浜急行で品川までストレートで行くことができるのだが、当時は東京モノレールを浜松町で国鉄山手線に乗り換えなければならなかった。

品川駅で降りてホテルに向かおうとしたところ、駅前で何らかの勧誘的なことをやっている大学生ぐらいの人達がいて、つかまっている人達も何人かいた。そして、私もつかまった。というか、話しかけられたきり断るタイミングもつかめなければどうやって断ればいいかもよく分からず、とりあえずいろいろなレジャー施設の割引券のようなものが束になっているものを5千円で買えば解放されるのだと、そちらを選ぶ方向に考えは傾いていった。

東京の大学生はみんな持っているとかいうのはおそらく明らかな嘘であろうし、もし仮にそうだったとしたところで絶対にこれはいらなかったのだが、それでもこのような経験は地方都市ではまったく無かったこともあり、どのように断ればいいのかがさっぱり分からず、絶対にいらないのだが涙目で買ったのだった。もしかすると使える割引券もいくつかあったかもしれないのだが、とにかくこのことを早く忘れたくて、チェックインして部屋につくなりゴミ箱に捨てた。

当時はミュージックビデオのことをプロモーションビデオとかビデオクリップとか呼ぶことが多かったのだが、駅前の横断歩道を渡ったあたりではモニターでそれが流れていて、マクドナルドは当時から現在の場所にあったような気がする。ホテルの中にある書店も結構充実していて、村上春樹が訳したスコット・フィッツジェラルドの短編集「マイ・ロスト・シティー」などを買っていたような気がする。ホテルにはやはり受験生がたくさん泊まっていた。食事は1階のレストランで主に取っていた。

受験当日に遅刻したりすることがあってはいけないので、前日に下見に行くわけだが、その帰りには六本木WAVEに寄ったりしていた。地下鉄日比谷線を六本木駅で降りて、階段で地上に上がりきる前に高速道路が上の方に見えて、これだけですでにテンションが上がった。左折するとすでにWAVEの建物が見える。1階から4階までレコードやビデオ、よく分からないオブジェのようなものまでが売られていて、その上の階にはレコーディングスタジオがあったかと思う。

1983年の11月に修学旅行での自由行動の時間を利用して来た時にはオープン直後だったのだが、この時ですらまだ1年3ヶ月ぐらいしか経っていなかった。やはり素晴らしい店だなと感激しながら六本木を少し歩いていると、青山ブックセンターという良い本屋まで見つけてしまった。アイドルや歌謡曲について小難しいことなどを書きがちな伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」には私も投稿して時々載せてもらえることもあったのだが、旭川の書店ではどこにも売られていなかったので通信販売で買っていた。青山ブックセンターにはちゃんと売られていて、しかもその時に出ていた菊池桃子が表紙の号には私の文章もいくつか載っていたので、自分の書いたものがあの六本木で売られているぞ、と激しく興奮を覚えたのであった。

「オリコン・ウィークリー」などを毎週、一文字たりとも欠かさず読んでいると様々な音楽や芸能の情報が入ってくるわけだが、中でも東京では観られるのだが地元では観られないテレビ番組などについてはひじょうに悔しい思いをしていたわけである。特に私は「花の82年組」の中でも特に松本伊代が好きだったため、司会を務めているという「オールナイトフジ」はかなり観たかった。また、この番組にレギュラー出演しているお笑いコンビのとんねるずの人気が急上昇しているというようなことも、「オリコン・ウィークリー」には載っていた。

80年代の初め頃、土曜日といえば家に帰って「お笑いスター誕生」を観ることが楽しみだったわけだが、とんねるずはアゴ&キンゾーとデッドヒートを繰り広げていた印象がひじょうに強く、この番組においてはかなりの人気者であった。10週勝ち抜きグランプリも獲得し、西城秀樹と伊藤つかさが司会の朝の番組「モーニングサラダ」にレギュラーが決まったということだったが、これも北海道では観ることができなかった。アニメ「ド根性ガエル」の歌を歌ってレコードも出したが、テレビで見かけることはほとんど無くなっていた。それが、何やら「オールナイトフジ」をきっかけにブレイクしかけているということで、これにも興味を大いに魅かれたのであった。

「オールナイトフジ」は現役女子大生が多数出演していることで話題になっていて、オールナイターズと呼ばれる彼女たちの中からはおかわりシスターズなどがレコードデビューして、そこそこヒットさせたりもしていた。東京のレコード店だけの集計ならばトップ10入りしている、などという話もあったような気がする。これの女子高生版のようなものが斉藤由貴の司会で一度放送され、これが1985年4月からスタートする「夕やけニャンニャン」に繋がり、おニャン子クラブを輩出したのであった。

「オールナイトフジ」は女子大生ブームなるものを生み出したりもしたのだが、このヒットに触発されて、民放各局は土曜深夜の番組に力を入れることになる。日本テレビは所ジョージが司会の「TV海賊チャンネル」で、「ティッシュタイム」などのお色気路線が成功していた。この番組はSTVこと札幌テレビ放送でもネットされていたため、北海道でも観ることができた。TBSでは松山千春が司会の「ハロー!ミッドナイト」を放送していて、お色気に頼らない硬派な路線だったらしいのだが、視聴率が伸びず半年で終了した。この番組も北海道でネットされていたのだが、観た記憶がほとんど無い。そして、テレビ朝日では「ミッドナイトin六本木」を放送し、これもお色気路線でドクター荒井の性感マッサージなるものが話題になってはいたが、北海道では観ることができなかった。

品川プリンスホテルに宿泊したことによって、私はついに「オールナイトフジ」「ミッドナイトin六本木」を観る機会を得ることになった。その前に、「ベストヒットUSA」ではオープニングのいろいろなレコードのジャケットがパラパラめくれる前に、「ブリヂストン・サウンドハイウェイ」という文言が入っていたことを初めて知った。北海道で放送される時には、提供がブリヂストンではないからだと思うのだが、この部分がカットされていたのである。

「オールナイトフジ」はほぼ予想していたタイプの番組だったが、松本伊代がたくさん観られるのがとにかく良かったし、とんねるずには勢いを感じた。「一気!」のレコードがややヒットはしていたのだが、全国区的にはまだ知名度は低かったように思える。

「ミッドナイトin六本木」は亀和田武というよく知らない人が司会をしていたが、後にSF作家だということを知る。「オールナイトフジ」では女子大生が恥ずかしそうにアダルトビデオを紹介するコーナーが一つの目玉になっていたが、「ミッドナイトin六本木」でアダルトビデオを紹介していたのは大川興業であった。おそらくまだそれほど有名ではなく、私もこの時に初めて知ったような気がする。学ランを着た応援団スタイルで、アダルトビデオのダイジェスト的な映像を流した後で、「海綿体充血、〇度!」などと言いながら興奮度を評価していた。当時の大川興業のメンバーには現役大学生もいたようで、大川豊団長が春からはメンバーが替わり、新生大川興業になるというようなことを予告した後で、「ちなみに私は真正包茎です」などと言っていた。また、お色気コーナーとのバランスを取る目的からか、森田健作が熱く説教をするコーナーもあったような気がする。

日曜の午前中、やはり六本木WAVEに行きたいと思い山手線に乗って車窓から外を眺めていると、「おでき薬局」という看板がやたらと目につくことに気づいた。恵比寿で営団地下鉄日比谷線に乗り換えると、神谷町の次が六本木である。階段を上り地上に出てみると、休日の午前中、六本木にはあまり人がいないことに気づかされた。六本木WAVEにも客はあまりいなく、フィル・コリンズの「フィル・コリンズⅢ(ノー・ジャケット・リクワイアド)」から「ワン・モア・ナイト」が流れていた。

夜にホテルの部屋のテレビで「ヤンヤン歌うスタジオ」を観ていると、とんねるずの石橋貴明と野村義男がコントのようなもので絡んでいた。石橋貴明が「イシバシだぜ!」と挨拶をするのに対し、野村義男が「本当に石橋?あの人もっと勢いあるよ」などと言うと、石橋貴明がさらに勢いよく「イッシバッシっだっぜッ!」という風にエスカレートしていくというやつだったと思う。

月曜にはどこかの大学の下見(といっても場所を確認して帰って来るだけなのだが)に行ってきて、夜にホテルの部屋でテレビ神奈川をつけていると、「ファンキートマト」というひじょうにゆるい番組をやっていてなかなか良かった。どこかのスタジオに客を入れてやっているようなのだが、洋楽のビデオクリップがたくさん流れる合間にお菓子の紹介があったり、よく分からないレギュラー出演者のような人が明石家さんまが「オレたちひょうきん族」でやっていた妖怪人間知っとるケをそのままパクっていたりと、その斬新さに驚かされた。また、深夜に住宅展示場のようなチープなCMが流れているのもとても良かった。これはテレビ神奈川だったかよく覚えていないのだが、「フニクリ・フニクラ」のメロディーで「行こう、行こう♪」などと歌われていた。

テレビ神奈川ではビルボードのトップ40をそのまま流すという夢のような番組を放送していることも知り、やっぱり東京(放送している局は神奈川だが)はすごいところだと感激したのだった。その時にこの番組のVJであった中村”あ、ごめん”真理が35年以上経ったいまもまだ続けているというのもすごいことである。1位はフォリナーの「アイ・ウォナ・ノウ」であった。産業ロックにもかかわらず、「リアル・ライフ・ロック・トップ10」のグリール・マーカスも高評価していたパワー・バラードである。

月曜の深夜にテレビ朝日で「グッドモーニング」という番組が放送されていて、このことも「オリコン・ウィークリー」などで知っていたのだが、北海道では観ることができなかった。朝のワイドショーのパロディーを深夜にやっているのだが、水島裕子の「てん・ぱい・ぽん・ちん体操」という声優の三ツ矢雄二が歌っている曲に合わせてセクシーな体操をするコーナーや、南麻衣子、小川菜摘、深野晴美の3人組、オナッターズが歌う「恋のバッキン」という曲の中毒性にたまらないものがあり、確か翌日は受験当日だったというのに、夜遅くまで見入ってしまった。

また、火曜にはレコードデビュー前の中山美穂と横山やすしの息子としても注目されていた木村一八が主演するテレビドラマ「毎度おさわがせします」も放送されていて、ホテルの部屋で観ていたのだが、主題歌のC-C-B「Romanticが止まらない」は妙に耳に残るな、と感じたりもしていた。

途中から虎ノ門パストラルにも泊まっていたのだが、ここは神谷町で六本木まで1駅だったので、六本木WAVEや青山ブックセンターに行くのに便利で良かった。一緒に旭川から受験に来ていた同級生2人が部屋に遊びに来て、夜に電気を消し、ラジオをつけながら寝転がっていた。文化放送の「ミスDJリクエストパレード」で、これも「オールナイトフジ」と同様に女子大生ブームを象徴する番組であった。戸板女子短期大学に通いながら芸能活動を行っていた松本伊代もレギュラーだったことがあり、私はザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」やリトル・リバー・バンド「追憶の甘い日々」などをリクエストして読まれたことがあった。その時の放送を録音したカセットテープを宝物のように持っていたのだが、いつの間にかどこかに行ってしまった。

尾崎豊の「卒業」、そして、菊池桃子の「卒業」もかかった。この年には斉藤由貴の「卒業」もあった。欽ちゃんファミリーのわらべのかなえこと倉沢淳美も「卒業」を出していて、どれもタイトルは同じだが別々の曲である。デュラン・デュランのコピーバンドでベースを弾いていたが、牧伸二に似ているなどともいわれていた一人の同級生はラジオから流れる尾崎豊や菊池桃子の「卒業」のメロディーで、担任の社会科教師の息子がキン肉マン消しゴムをテーブルの上に並べて眺めていることや、デュラン・デュランのコピーバンドなどでキーボードを演奏していた男子生徒が校則で禁止されている自動車の運転を街でしていたことが見つかり停学になったくだりなど、関係者でなければ何が面白いのかさっぱり分からない題材の替え歌を歌い、我々は港区のホテルの暗闇の中で腹がよじれるぐらいに笑い転げた。

もう一人の同級生は、テレビで観た住宅展示場のチープなCMやなぜか私が千葉生まれだという、これもどこが面白いのかさっぱり分からないニセの情報を元にした替え歌を歌い、これにもなぜか大爆笑していた。どうしてここまで詳しく覚えているかというと、この時の様子をラジカセで録音していて、後からそれを繰り返し聴いたからである。このカセットももちろん、いつの間にかどこかに行ってしまった。

デュラン・デュランのコピーバンドでベースを弾いていたが、牧伸二に似ているともいわれていた同級生は卒業後、札幌の大学に進学し、それからも札幌や旭川で何度か会った。夏休みにせっかく久しぶりの再会だというのに、テレビの「スターどっきり(秘)報告」的な番組が観たいからといって帰っていったのはよく分からなかった。

この日、替え歌を歌っていたもう一人の同級生は浪人し、ケント・ギルバートがCMをしていた志学塾という予備校に通いながら、西武池袋線の東長崎とかいうところにある寮で生活していたと思う。何度か一緒に新宿に遊びに行ったりもしたのだが、そのうち連絡も取らなくなった。志学塾のキャッチコピーは「転ばぬ先の志学塾」だったが、受験戦争もいよいよ本番というような時期に倒産したはずである。彼とはその後、連絡を取ってもいなければ消息も知らないのだが、どうか幸せになっていてほしいと思う。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。