パブリック・イメージ・リミテッド「ライヴ・イン・TOKYO」のジャケットとほぼ同じ場所で写真を撮ったことなどについて。

日曜なのに一人でせっせと仕事をしていたのだが、一息つこうとiPhoneでTwitterのアイコンを開いたところ、ジョン・ライドンの誕生日とかでパブリック・イメージ・リミテッド「ライヴ・イン・TOKYO」のジャケットがRTされてきた。ジョン・ライドンにはドナルド・トランプ支持を表明したりするもうずっと前からすでに興味を失っていたのだが、そういえば新宿の高島屋の上にまだHMVがあった頃、ブースのようなものの中でインタヴューに応えるジョン・ライドンを見たことがあるような気もするのだが、記憶が定かではない。確か「サイコパス」というソロアルバムをリリースしたタイミングだったような気がする。

それはそうとして、ちょうど新宿にいて、どこかのタイミングでセブンイレブンのネットプリントを利用しに行かなければいけなかったので、これはステキなタイミング、ダニー飯田とパラダイス・キング、という訳で外に出たのだ。

「ライヴ・イン・TOKYO」のジャケットといえば、雨の新宿東口、カメラのさくらやの前でたたずむジョン・ライドンの姿が印象的である。このライヴ・アルバムはこの年の7月1日、2日に東京の中野サンプラザで開催されたパブリック・イメージ・リミテッドのライヴの模様を収録したものらしい。アルバムは当初、日本だけでリリースされ、10曲入り、約46分の収録時間なのだが、45回転2枚組という謎の仕様で発売されていたようだ。

このアルバムは実際、当時もレコード店でよく見かけた。というか、ジョン・ライドンはパンク/ニュー・ウェイヴのアイコンとして日本でも「宝島」の表紙になったりだとか、わりと人気があったように記憶している。渋谷陽一の「サウンド・ストリート」でもパブリック・イメージ・リミテッドの音楽は取り上げられ、ジョン・ライドンのボーカルのことをニワトリを絞め殺したような声などと評しながらも、作品は好意的に紹介されていた印象がある。

当時、旭川の公立高校生であった私もセックス・ピストルズなど聴いたこともないのに、パブリック・イメージ・リミテッドの最新シングルにして全英トップ10ヒット、「ラヴ・ソング」の12インチを買ったりしていた。

パブリック・イメージ・リミテッドはこの時が初来日だったのだが、6月21日が中野サンプラザ、24日が名古屋市公会堂、25日が大阪厚生年金会館、27日、28日、7月1日、2日が再び中野サンプラザ、4日が京都会館、5日にまたしても中野サンプラザで公演を行ったというのだから、かなり人気があったのだろう。

ちなみに当時の日本のヒットチャートを見ると、薬師丸ひろ子「探偵物語」、中森明菜「トワイライト」、原田知世「時をかける少女」などがヒットしていたことが分かり、小林克也とビートたけしが司会をしていて半年も経たずに終わったテレビ朝日の「ザ・ベストヒット’83」のことが思い出される。小林克也が細川たかしの「矢切の渡し」を紹介する際に、「ベストヒットUSA」ばりに「ヤギリノワターシー」とカッコよく言っていたのが印象的であった。

それはそうとして、私はそれまで全米ヒット・チャートものばかり聴いていたのだが、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンを追い風としてイギリスのニュー・ウェイヴなども聴きはじめるかたわら、「ミュージック・マガジン」のレヴューで興味を持ったマルコム・マクラレン「俺がマルコムだ!」を買ってみたところものすごく良かったことなどで調子に乗り、パンク/ニュー・ウェイヴが以前から好きだった風を装いかけていた頃である。とはいえ、7月5日にリリースされたサザンオールスターズ「綺麗」とRCサクセション「OK」はちゃんと発売日に買った。

「ラヴ・ソング」で初めて聴いたパブリック・イメージ・リミテッドは音がスカスカなのがそれまで聴いていたポップ・ソングとはかなり違い、やはりジョン・ライドンのボーカルがとても個性的だという印象がひじょうに強かった。

11月の修学旅行の主な目的は最終日の東京での自由行動の時間にオープンしたばかりの六本木WAVEに行くことだったのだが、京都では地元の不良と目が合わないように注意しながら、ロックファッションの店でPILとセックス・ピストルズの缶バッジを買った。寝台列車の中でクラスで大人しそうな男子がヘッドフォンステレオを聴いていたので、半ば強制的に借りて、彼が持って来ていたカセットテープで初めてセックス・ピストルズを聴いた。想像していたよりも普通だなと感じたが、あたかもすでに知っていたかのように、「やっぱりピストルズは最高だな」などと言っていたのであった。

「ライヴ・イン・JAPAN」は実際にライヴが行われてからそれほど経たないうちに日本で発売され、その後、イギリスでも日本と同じく45回転2枚組としてリリースされたが、アメリカではそれよりも後になってから33回転1枚で発売されていたようだ。

これは初めてデジタル・レコーディングされたライヴ・アルバムだともいわれているらしく、レコーディングには日本の新たな録音技術の実験という側面もあったようである。

となるとわりと重要視されても良いのではないかというような気もするのだが、音楽批評的にはそれほど高く評価されていないようだ。このライヴの模様はビデオカセットでも発売され、後にDVD化もされたのだが、それは私も買って持っているのだが、ライヴ演奏の記録以外に、当時の東京の様子が伝わってくるような映像もあり、なかなか楽しむことができた。

それはそうとして、Twitterのタイムラインに流れてきた「ライヴ・イン・TOKYO」のジャケット写真を見て、なぜ外に出ようと思ったかというと、せっかくたまたま新宿にいるのだし、これとほぼ同じ場所で写真を撮ってみるのはどうかと思ったのである。

場所はすぐに特定できた。東口、「笑っていいとも!」やかつてCISCOがあったことでも印象深いスタジオアルタの方に駅から出て、紀伊國屋書店などがある方に向かってすぐである。かつて、紀伊國屋書店の中に帝都無線というレコード店があって、私が初めて新宿でレコードを買った店は確かそこだったような気がする。1985年4月21日の午後で、アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォースの12インチ・シングル3枚だった。その日は一旦、千石の大橋荘に戻って、夜には渋谷LIVE INNに小山卓治のライブを観にいったのだった。

「ライヴ・イン・JAPAN」のジャケットに写っているカメラのさくらやといえば「安さ爆発」のキャッチフレーズで知られ、かつては渋谷にもHMVが初めて出店したONE-OH-NINEの手前(渋谷駅から見て)辺りにあった。フィギュアやプラモデルなどにも力を入れていた印象があったが、いつの間にか無くなっていた。2010年に全店舗を閉店したようだ。「ライヴ・イン・JAPAN」のジャケットに写っている新宿東口店はその後、ビックカメラに継承された。

向かいにはワシントン靴店、アメリカ屋靴店、丸井などの看板が見られるが、いずれもここにはもう無くなっている。丸井の新宿での旗艦店は、いつの間にか伊勢丹の向かい側の店になっていたようだ。かつて地下にヴァージン・メガストアがあった所にあたるのだが、建物自体は建て替えられているという。

ワシントン靴店だったところは現在、ABC-MARTなので同じく靴を扱っているということになる。丸井の手前にあるビルの看板をよく見ると上の方に「しんじゅく一色」と書かれているのだが、ここは現在もそのままである。茶道具などを扱っている会社らしく、25年ぐらい前に広告代理店で仕事をしていた頃のクライアントの一つだった。当時、このビルにレコファンもあって、商談に少し早めに着いた時にCDを見たりもしていたのだった。

私が東京で一人暮らしをはじめた80年代半ば辺りには、渋谷や六本木や代官山などがお洒落とされていて、それは現在も基本的には変わらないのかもしれないが、新宿にはあまり行かなかったような気がする。歌舞伎町の東亜会館にあるディスコでは中高生がユーロビートで踊り、カレーライスなどを食べていたという。新宿駅までの途中には深夜も営業している上高地という喫茶店があり、とんねるず「嵐のマッチョマン」の歌詞にも仮眠する場所として登場している。

タワーレコードがルミネの現在は無印良品があるフロアに入ったのがいつだったかはよく覚えていないのだが、90年代にはよく利用していた。平日は放課後の学生たち、休日は普通のカップルの姿が目立ち、健全なCD文化の風景という感じがひじょうにしていた。一方、私は西新宿のラフトレードショップで「NME」のレヴューで読んだ一般的な日本の音楽ファンにはまだ知られていないようなよく分からないインディー・バンドのアナログレコードなどを買って、悦に入っていた。

1階が三愛の水着の店で2階がタワーレコードというビルも、確かあったような気がする。この店でCDを見ているとイタリアンレストランのようなフレイバーが漂ってくることがあったような気がするのだが、近くにカプリチョーザがあったからだと納得したような気もすれば、そんなことはまったく無かったような気もする。

ルミネの隣にフラッグスができてタワーレコードが移転したのだが、その後、ルミネには新星堂が確かあったはずだがいつの間にか無くなっていた。そういえばルミネには青山ブックセンターが一時期、2店舗あったのだが、そのうちの1つのすぐそばにあるブティックのような店で、常にフリッパーズ・ギターかコーネリアス、時々、ピチカート・ファイヴがかかっているという案件があり、「クイック・ジャパン」の読者欄でも指摘されていたような気がする。

私の妻は無印良品が大好きなので、新宿に行くとルミネの無印良品を見て、その間、私はフラッグスのタワーレコードを見るのだが、ある時、よく分からないアイドルのような人たちがファンと交流のようなことをしていて、誰だろうと思いポスターを見てみるとNegiccoと書かれていた。当時は曲もまったく聴いたことがなく、どのような人たちかもよく知らなかったので頑張っているな、と思って見ていた。

その数年後にNegiccoにがっつりハマるというフェイズを迎えるのだが、この同じビルの上の方の階にあるバーベキュー施設のようなところで行われたイベントに当選し、新潟のお酒を飲んでバーベキューをいただきながらライブが観られたのはとても良かった。

爆風スランプのボーカリスト、サンプラザ中野のステージネームは「ライヴ・イン・TOKYO」が収録された中野サンプラザから取られていると思われるが、私が爆風スランプのライブを実際に観たのは一橋大学の小平祭(オープニングアクトがデビュー前の米米クラブだった)と日本武道館であり、中野サンプラザで観たのは1987年の忌野清志郎と2016年、2018年のNegiccoだけである。

SIONが「新宿の片隅からののしりあう街を見てた」と歌ったのが1980年代で、大森靖子が「あのまちを歩く才能がなかったから 私 新宿がすき 汚れてもいいの」と歌ったのが2010年代である。90年代に存在したといわれている「渋谷系」(私は90年代に渋谷にある大学に通ったり幡ヶ谷とはいえ渋谷区民だったりして、レコードや本を買いに行くのもだいたい渋谷で、フリッパーズ・ギターの音楽が好きだったりはしたのだが、「DJイベント」なるものに行ったことが当時の渋谷では一度も無く、「DJ感覚」でレコードを買ったことが覚えている限り一才無いため、「渋谷系」とはほとんど関係が無いといえる)に対抗して、1998年に「歌舞伎町の女王」でブレイクした椎名林檎は「新宿系」を自称していたが、新宿で「椎名淫語」という風俗店を見かけたことがある。

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