プラスチックス「ウェルカム・プラスチックス」について。

YMOことイエロー・マジック・オーケストラの社会現象的ともいえるブームは、1980年の旭川の公立中学校でも知らないうちに広がっていた。初めは学級でも真面目で大人しいタイプの男子が「イエロー・マジック・オーケストラって知ってる?」などと言っている程度ふだったのだが、気がつけば男子トイレの小便器で隣にいた改造した学生服を着て頭髪をチック(というマンダムから発売されている整髪料)で固めているタイプの男までもが「ライディーン」のメロディーを口ずさむ事態にまでなっていて、これは本格的に流行っているな、と感じたのであった。

日曜日ともなればサイクリングロードを通って常盤公園(道重さゆみが山口県時代によく行っていたという宇部市のそれとは名前は同じだが別の場所である)にある旭川市青少年科学館(現在は旭川市科学館サイバルとして移転リニューアルされていて、WHY@DOLLのバスツアーでもコースに入っていたことで知られる)まで自転車で行くというのは、旭川の冴えない男子の定番ともいえるわけだが、その時にもラジカセでYMOを大音量で流しているお調子者などがいたものである。

その前の年だから1979年のことだが、サザンオールスターズが夜のFMラジオか何かの番組に出ていて、桑田佳祐がアイドルの倉田まり子について好意的な発言をしていた。当時はニューミュージック全盛で、若者の興味関心はそっちにいっていたため、フレッシュアイドルがブレイクすることはなかなか困難であった。歌謡ポップス界では沢田研二、山口百恵、西城秀樹、郷ひろみといった大物たちがまだまだヒットチャートを賑わせていた。

桑田佳祐が言うのだから倉田まり子というのは応援するに値するのだろうというような、よく分からないフィルターがかかるとなかなか気になってもきたのだが、ある日、その倉田まり子がよくあるオールスターものまね歌合戦のようなものに出演していた、と記憶しているのだが、いまとなってはまったく確証がない。しかも、そこでよりによってプラスチックスの「DELICIOUS」を歌っていた、という記憶が私にはあるのだがその根拠がいまのところどこにもない。何者かによって刷り込まれた偽りの記憶なのではないかといまや疑っているのだが、一体、誰が何の目的でそんなことをするのだろうか。

それでも、私がプラスチックスの曲を初めて聴いたのは、カバーというかものまねなのだが、まさにその時だったわけである。奇抜なファッションと歌謡ポップスやニュー・ウェイヴとはやや違ったタイプのボーカルスタイルで歌われる歌詞も不思議だが、妙な心地よさを感じさせるところがある。しかし、本当にあれは現実だったのだろうか。インターネットで検索しても誰一人としてそんなことを言っている人はいない。いまどき現実に実際に起こったこと、しかもテレビでだったとするならば、そんなことがあるのだろうか。Googleでプラスチックスと倉田まり子について一つのセンテンスの中で言及した文章はすべて、私がいつかのタイミングで何処かに書いたものばかりである。2ちゃんねるへの書き込みを含めである。

しかし、もしもあれが現実ではなかったとしたら、何がきっかけで私はプラスチックスのシングル「TOP SECRET MAN」を買ったのだろう。A面の曲はレコードに針を落として、初めて聴いた。これもすぐに好きになったのだが、やはりB面の「DELICIOUS」がとても好きだった。この曲にはすでに聴き覚えがあった。テレビで倉田まり子がものまねをしていた(ような気がするのだが、いまやあれが現実だった自信は限りなくゼロに(佐藤)チカづきつつある。

PLASTICSのレコードの歌詞カードには、歌詞が英語で書かれている。「TOP SECRET MAN」などは歌詞が英語なのだが、「DELICIOUS」の場合はそう言ってよいのかよく分からない。最初の歌詞は「TV NINGEN MICOM MANIA PLASTIC FACE TECHNOLOGY」である。「TV NINGEN」とは「テレビ人間」を指すのだろうが、これはテレビばかり観ている人間のことなのか、あるいはテレビから手足が生えて人間のようになっているものなのか、その辺りがよく分からない。

続いて「MICOM MANIA」は「マイコンマニア」であろう。今日、皆様がお持ちのコンピュータのことをパーソナルコンピュータ、略してパソコンと呼ぶが、当時はマイクロコンピュータ、略してマイコンであった。理系の男子には当時、このマイコンマニアとも呼ぶべき人たちが一定数いたように思われるのだが、私の弟も何がどうなってそうだったのかはいまだに分からないし、おそらく一生知らないまま死ぬのだが、カセットテープを用いてゲームのプログラミングだか何だかをやっていて、モニタには黒の背景に緑色の文字が表示された。私も兄としての圧力を駆使してそれを触らせてもらったりしていたのだが、ただ単に「ビルボード」のチャートをキーボードで打ち込んで、モニタに映し出されたのを見て悦に入るというひじょうに無駄な使い方をしていた。

「TOP SECRET MAN」のジャケットに載っている写真もとても良かった。メンバーの5人中4人がサングラスをかけ、1人は黒縁のメガネである。全員がボーダーのシャツを着ていて、おでこからよく分からない突起物のようなものを生やしている。「PLASTICS」というロゴマークもカッコよく、私はこれを自宅のありとあらゆる文具に黒マジックで書いたり、学校の机に鉛筆で書くだけでは飽き足らず、美術室の机に彫刻刀で掘ったりもしていた。これはアルバム「ウェルカム・プラスチックス」にも共通しているのだが、グリーンにピンクというカラーリングもクールとしか言いようがない。

YMOはもうすでに十分に流行る兆しを見せていて、しかも主にマイコンマニア的な真面目で大人しい男子がコアなファン層という印象があった。しかも、周りにすでにレコードを持っている人たちがいくらでもいて、いまさら買うのは気が引けたり、なんだか勿体ないような気もしていた。同じテクノポップという括りで見られていたとはいえ、YMOとプラスチックスとでは音楽性もかなり違っていた。

プラスチックスはメンバー全員がクリエイター系の仕事を持っていて、バンドは片手間でやっているというようなイメージもあり、実際にはそうでもなかったとしても、そこがたまらなくカッコよくも感じられた。

「ウェルカム・プラスチックス」のレコードも買って、とにかく毎日聴いていたし、一緒に歌ってもいた。歌詞カードは全部英語だったが、IBMやNHK、KDDといった企業名を連呼し、「WE ARE ROBOT」というだけの「ROBOT」など、海外のアーティストによる英語詞の曲とはチト(河内)違っていた。それもコピー感覚でなんだかとても良かった。

そして、日本に先がけてイギリスですでにリリースされていたという「COPY」も歌詞カードは英語だが、「あっちもこっちもコピーだらけ、オリジナリティー無い無い」というような、明らかに日本語に聴こえる風刺とウィットにとんだやつであり、「COPY COPY COPY COPY」と連続して歌われるとそれが「ピコピコピコピコ」とも聴こえ、当時、一般的にテクノポップを形容する際に用いられていた「ピコピコサウンド」というやつをボーカルでやっていたりもする。

「I WANNA BE PLASTIC」などは文字通り「プラスチックになりたい」という内容で、ルナティック(狂気的)にもプラトニック(精神的)にもなりたくはなくて、プラスチックになりたいというところが当時の感覚としてものすごくしっくりきた。とにかくニューミュージックとか純文学といった70年代的な湿っぽくて人間的なものから離れたい、その方が新しくてカッコいいのだというような気分があったような気がする。これがさらに発展していって、ポストモダン的な無機質にまで至ったような気もするし、そうではなかったのかもしれない。

とはいえ、プラスチックスの音楽というのは佐藤チカと中西俊夫のボーカルが当時の日本のポップスとしてはユニークで、コケティッシュだったりファナティックだったりしたのと、リズムボックスのチープなリズムシンセサイザーのピコピコサウンドが特徴的ではあったものの、それ以外の部分ではエヴァーグリーンなポップ・ミュージックのイディオムによって成り立っていたような気もする。

「WELCOME PLASTICS」はビートルズ賛歌の替え歌で、「LAST TRAIN TO CLARKSVILLE」はモンキーズ「恋の終列車」のカバーである。これらの曲も、当時13歳だった私はプラスチックスのバージョンで初めて知った。

このアルバムを毎日聴いていた頃から40年以上が経っているわけだが、やはりこの軽さとポップ感覚が蒔いた種というのは、私のベーシックな価値観として結実化しているなということを感じずにはいられない。

この年のオリコン年間アルバムランキングでは61位にランクインしていて、石野真子「マイ・コレクション」よりも1ランク下で、シェリル・ラッド「そよ風のエンジェル」より1ランク上である。発売日は1980年1月21日だったようだ。

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