シャーデーの音楽とその個人的な記憶などについて。

1959年1月16日が、シャーデー・アデュの誕生日だとのこと。生まれはナイジェリアで、4歳の頃からイギリスのエセックスで育てられたらしい。

我々がシャーデー・アデュのことを初めて知るのは、1980年代の半ばあたりのこと。シャーデーというバンドのボーカリストとしてである。いや、シャーデーというソロ。アーティストなのではないかと思っていた人々も少なくないのではないか。などと書いている私にしても、ある時期まではそのような認識だったような気がする。

バンドがシャーデーで、その中心メンバーがシャーデー・アデュ。音楽性は違えど、ヴァン・ヘイレンやボン・ジョヴィと同じシステムである。

シャーデーの最初のアルバム「ダイヤモンド・ライフ」がリリースされたのは1984年7月16日である。80年代の日本ではテレビによく文化人や芸術家のような人たちがタレントとして出演するケースが見られたが、クマさんこと篠原勝之もそのうちの一人で、著書に「人生はデーヤモンド」というのがあった。「ダイヤモンド・ライフ」と少し似ているが、おそらくまったく関係はない。

当時、旭川の公立高校に通っていた私だが、土曜日はクラブ活動のような授業になっていて、選択制となっていた。その中にコーヒーを飲みながらクラシック音楽のレコードを聴き、最後に感想のようなものを書いて出すだけというやつがあった。その間、好きな本や雑誌を読んでいても良いのだという。これは良いと思い、希望をしたのであった。

クラシック音楽にはあまり興味が持てなかったが、本や雑誌を読むことができたのはよかった。おそらく、「ロッキング・オン」「ミュージック・マガジン」「宝島」のうちのいずれかを読んでいたのではないかと思う。そして、シャーデーのことが載っていたのはおそらく「ミュージック・マガジン」だったのではないかと思うのだが、確証はない。

なんとなくジャジーなポップスがイギリスでは流行っていると、そのようなことが書かれていたような気もする。いまならばソフィスティ・ポップなどとカテゴライズできるのだろうが、当時はそうでもなく、都会で流行していたカフェ・バーなるところで流れていそう、ということからカフェバー・サウンドなどと呼ばれていたような気もするし、そうでもなかったような気もする。とにかく西麻布のレッド・シューズという店の名前だけは知っていたのだが、もちろん行ったことなどはない。

その年には、プリンス「パープル・レイン」、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」といったメジャーなアーティストのヒット作がたくさんリリースされ、どれも好きだったのだが、これこそ自分が好きな音楽なのだと強い思い入れがあったのは、ザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」であった。佐野元春「VISITORS」が従来のファンの間で賛否両論というのもあったりはするのだが。そして、サザンオールスター「ミス・ブランニュー・デイ」は画期的なヒットシングルだったし、菊池桃子はとてもかわいかった。

それで、ザ・スタイル・カウンシルの「カフェ・ブリュ」もジャズっぽくてお洒落でいいなと思いながら聴いていたので、シャーデーやマット・ビアンコなどもその延長線上にあったかな、というような印象がある。実際にはかなり違うのだが、スタジオ・A.K.A.「イン・ザ・スタジオ」なども同じようなものではないかと思っていたし、エヴリシング・バット・ザ・ガール「エデン」(それから、トレイシー・ソーン「遠い渚」とベン・ワット「ノース・マリン・ドライヴ」とその辺りのやつ」などもあった。旭川のモテたくて洋楽を聴いているだけの私のような者でも知っている程度には、それらの音楽は意外にも認知されていたといえる。

そんなわけでシャーデーの「ダイヤモンド・ライフ」は好きでいることによってセンスの良さがアピールできるような、そういった位置づけのアルバムだったような気はする。とはいえ、当時の私は近田春夫「天然の美」の再発などは買っているのに、シャーデーの「ダイヤモンド・ライフ」は買っていなかったので、本気でモテるために洋楽を聴いていたとは到底いえず、すべてにおいて中途半端という面が露呈されている。

というわけだから、不純な動機で挑んだ大学受験も失敗するし、とはいえ東京には早く住みたいのでさっさと上京をして、一人暮らしをしながら予備校に通うという日々がはじまる。浪人生なので贅沢がいえるはずもなく、日当たりが悪く風呂がついていない、4畳半和室のアパートに住むことになった。壁が薄すぎてステレオを持ち込んだり、友人を連れてきたりも禁じられていた。土曜の夜は「オールナイトフジ」などをダラダラと観て、明け方に眠るというコーネリアス「太陽は僕の敵」状態だったのだが、午前中に隣人が「笑っていいとも増刊号」の「タモリ・さんまの日本一の最低男」あたりで笑っている声が聞こえてきて目が覚めるという、センチメンタル・バスも顔負けのサニーデイ・サンデイであった。

音楽はラジカセの小さな音で楽しむしかないのだが、地方にいた頃は長距離受信で聴いていたFENがクリアな音声で聴けるのはとても良かった。シャーデーがイギリスよりも少し遅れてアメリカでもブレイクしていて、「スムース・オペレーター」がよくかかっていた。本来ならば西麻布のカフェ・バーなどに似合いそうなサウンドなのだが、薄暗い4畳半和室でこの曲をよく聴いていた。

池袋のパルコでは入口から2階まで上っていくエスカレーターで、ブランドショップの店員ことハウスマヌカンのような人から、お前のようなダサい田舎者は来るなというような視線を浴びているようで、ひじょうに怯えていたのだが、オンステージ・ヤマノというレコード店に行きたかったので頑張っていた。

しかし、今夜は気合いを入れてガッツリ、レコードを見るぞ、という気分の時は、電車と地下鉄を乗り継いで、六本木WAVEまで行ったものである。レコード店、CDショップのみにかかわらず、人生において行ったことがある、全業種、業態を通してどの店が一番好きかと問われても、優柔不断なこの私が80年代の六本木WAVEと、こればかりは即答ができる。それぐらいに好きな店であった。

秋で、土曜日の夜だった。エントランスでフリー・ジャズのような音楽を演奏する人たちがいて、それを大人や若者たちが観ていた。その日も六本木WAVEのまずは最上階の売場に行って、それから1階ずつ下っていった。いろいろと変わったレコードなどを見るが、結果的には無難なヒット作を買う。その日は、シャーデーの「プロミス」とロバート・パーマーの「リップタイド」だった。

「プロミス」はシャーデーの2作目のアルバムで、イギリスでもアメリカでも1位になった。そういえば、その前にこの夏にはシャーデーが「ライヴ・エイド」に出演というのもあった。あの、逸見政孝アナウンサーが「次は、スタイル・カウンシルさんです」と紹介をしたとかしなかったとかいわれている、あの伝説のチャリティー・イベントである。イベントにはいい弁当が出る、と言っていたのは忌野清志郎だっただろうか。

シャーデーは流行最先端人間というか、西麻布とか代官山とかそういったお洒落な街が似合いがちな業界人とかモデルとかそういった人たちに好まれているような印象があった。あと、シャーデーが元モデルだったというような情報は、いろいろな意味で都合も良かった。そういった人たちのことをいけすかないと感じていたかというと、まったくそんなことはなく、ただただ憧れていたことをけして忘れはしないだろう。このままでいたいと僕が思ってたこと。カメラの中、3秒間(以下、省略)。

そういうお洒落な人たちは実は無理をして高い服を買っているので食費などを切り詰めている可能性が高く、お昼にはシャケ弁当などを食べている、というような伝説があった。それを曲にしたのが、謎のシンガー「やや」が歌う「夜霧のハウスマヌカン」であった。作詞は「Hot-Dog PRESS」に「業界くん物語」を連載していた、いとうせいこうである。作詞者も歌手名も、全部ひらがな。

そう考えると、このシャーデーの「プロミス」というタイトルから、消費者金融の会社を思い浮かべたりということも無きにしもあらず。そして、先行シングルが「スウィーテスト・タブー」というのも、なんだか淫靡な感じがしてとても良かった。

第一志望の大学にはまあ入学することができたのだが、教養課程が神奈川県の厚木市というところにあって、まあ小泉今日子の出身地だから良いのだが、都心は遠くなりにけりである。それで、気がつくと地元の女子高校生とワンルームマンションで焼うどんをつくるなどをはじめ、わりと自堕落で爛れた生活におちいり、これはまた困ったものである。

あっという間に1988年なのだが、この年にシャーデーが3作目のアルバム「ストロンガー・ザン・プライド」をリリースする。もういろいろな意味で10代の頃のプライドはすでにズタボロ状態だったりもしたのだが、このアルバムは小田急相模原か本厚木のCDショップで買ったじはずである。いつの間にか、CDの時代である。ザ・スタイル・カウンシル「コンフェッション・オブ・ア・ポップ・グループ」とかスクリッティ・ポリッティ「プロヴィジョン」とかと同じぐらいの時期に買ったような記憶がある。

プリンス「LOVESEXY」なども含め、洋楽などもかなり買っていたはずなのだが、岡村靖幸「DATE」(と「聖書(バイブル)」と「だいすき」)、エレファントカシマシ「エレファントカシマシⅡ」ばかりをあまりにも聴きすぎたため、他の印象がひじょうに薄くなってしまっている。

なんだか大人の音楽だな、と感じた。その年の秋に、J-WAVEが開局した。

それから音楽の趣味が変わってしまい、シャーデーの音楽もあまり追いかけなくなってしまったのだが、1990年代初めに少し働いていたCDショップでは「Love Deluxe」というアルバムがすごく売れていたり、その数年後に知り合った女性の部屋に行くとそのCDがあったり、その人とはいまでも一緒に生活していたりいろいろあったり無かったりするのだが、その後もアルバムが売れたりグラミー賞を受賞したり、ヒップホップのアーティスト達からリスペクトされていることが明かされたりと、ポップ・ミュージック史においてもひじょうに重要なアーティストとして見なされている。

いまは便利なベスト・アルバムやプレイリストなども手軽に聴くことができるようになっているので、久しぶりに聴いてみて、おしゃれな気分に浸ったり、理想と現実について思いを巡らせたり、いろいろな楽しみ方をするのも乙なものという気もする。

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