ザ・ぼんち「恋のぼんちシート」と「ビートたけしのオールナイトニッポン」について。

「ビートたけしのオールナイトニッポン」がニッポン放送で放送を開始したのは、1981年1月1日の深夜、日付は変わって2日のことであった。

ラジオの改変期というのは毎年4月と10月で、パーソナリティーが交替するのもだいたいそのタイミングなのだが、この年の木曜一部については、1月にダディ竹千代からビートたけしに変わることになった。

漫才ブームが本格化したのはこの前の年で、4月から放送がスタートしたフジテレビの「THE MANZAI」、あとは「花王名人劇場」や日本テレビの「お笑いスター誕生」などの影響が大きいと思われる。

1980年にはYMOことイエロー・マジック・オーケストラを中心とするテクノブームや、田原俊彦や松田聖子の登場によって再びアイドルポップスがメジャーに脚光を浴びたりと、年代が変わった途端に大衆がライトでポップな感覚を求めるようなったようなところがあった。

それまでは主に中高年の娯楽というイメージが強かった漫才が若者の流行になったのも、時代の気分が変化していくのとリンクしていたような気もする。

とはいえ、漫才ブームにおいて圧倒的にポップな存在だったのは、おそらくB&Bとザ・ぼんちである。ビートたけしときよしから成るツービートは、「赤信号 みんなで渡ればこわくない」をはじめとするブラックジョークが特徴であり、漫才ブームの最中にあってはダーティーな役割を担っていたような印象がある。但し、ワニブックスから出版されていた「ツービートのわッ毒ガスだ-ただ今、バカウケの本」はものすごく売れていた。

「ビートたけしのオールナイトニッポン」、その第1回は生放送ではなく録音だったのだが、早々に話題になったのだった。受験勉強のノイローゼから親を金属バットで撲殺しようと思っているという若者から相談のハガキが届き、それにビートたけしがノリノリでアドバイスをしたことが物議を醸したのだが、それは実際に起こった神奈川金属バット両親殺害事件に着想を得た、完全なネタでありヤラせであった。

この年の元旦にはザ・ぼんちがシングル「恋のぼんちシート」をリリースし、これがオリコン週間シングルランキングで最高2位の大ヒットを記録した。

ザ・ぼんちは漫才師でありながらトラッドファッションを愛好しているようなイメージもあり、レコードのジャケットは男性ファッション誌「MEN’S CLUB」の表紙をパロディー化したようなものでもあった。

この曲の作詞・作曲は近田春夫、編曲はムーンライダーズの鈴木慶一であった。曲の内容には、後にやらせが発覚して打ち切りになったテレビ朝日系のワイドショー番組「アフタヌーンショー」のパロディーをはじめ、ザ・ぼんちの漫才でお馴染みのネタを含んでいる。そうでありながら、曲調にはニュー・ウェイヴ的なところもあった。

タイトルは近田春夫のバックバンド、BEEFが前身のテクノポップ/ニュー・ウェイヴ・バンド、ジューシィ・フルーツに提供した「恋はベンチシート」をもじってもいる。そして、「ビートたけしのオールナイトニッポン」でネタにされるように、ダーツ「ダディ・クール」にひじょうによく似ていた。とはいえ、近田春夫はこの曲について、ザ・ダーツから許可は得ていて、代わりに楽曲を提供したのだという。

それで、「ビートたけしのオールナイトニッポン」でネタにされた時にもあっさり認めたというわけなのかもしれない。

ビートたけしはこの数ヶ月後、「俺は絶対テクニシャン」でレコードデビューを果たすのだが、「恋のぼんちシート」のような大ヒットというわけにはいかなかった。

それでも、テクノポップの影響を受けたカルト的なポップスとして、今日でも一部でひじょうに愛好されてもいる。これについては、また別の機会に取り上げたいと思う。

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