1981年の日本ではこんな曲がヒットしていた。

1980年にはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を中心とするテクノブームがあり、田原俊彦と松田聖子のデビューとブレイクをきっかけにアイドルポップスが久しぶりに注目を浴びたり、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介などによって漫才が若者から支持されるようになったり、山下達郎の「RIDE ON TIME」がカセットテープのCMでお茶の間のテレビから流れるということなどがあった。年代が変わった途端に、時代の空気感がなんとなくライトでポップに変わっていくのを感じていたような気がする。

今回はその翌年である1981年のヒット曲から20曲を厳選し、流行した順番に並べていくことによって、当時の気分のようなものをなんとなく再現できないだろうか、というゆるやかなコンセプトでやっていきたい。

恋のぼんちシート/ザ・ぼんち

1981年1月1日発売、作詞・作曲:近田春夫、編曲:鈴木慶一でオリコン週間シングルランキングでは最高2位の大ヒットを記録した。ダーツ「ダディ・クール」とよく似ていることが「ビートたけしのオールナイトニッポン」でもネタにされていたが、近田春夫とダーツ側との間で話はついていたようである。歌詞にはザ・ぼんちの漫才でお馴染みのギャグの数々が入っていて、リスナーのニーズとも合致していたように思われる。漫才ブームに便乗したヒットであることには違いないが、ブームの中心にいたほとんどの芸人がレコードを出したものの、ここまでヒットした曲は他に無かった。次のシングル「ラヂオーニューミュージックに耳を塞いでー」は最高31位であった。

ペガサスの朝/五十嵐浩晃

北海道美唄市出身のシンガー・ソングライター、五十嵐浩晃の3枚目のシングル。明治チョコレートのCMに使われ、オリコン週間シングルランキング最高3位のヒットを記録した。この曲がヒットしている最中に発売された大滝詠一のアルバム「A LONG VACATION」では、「FUNX4」において月に吠える男の役で参加している。ナイアガラ・トライアングルのメンバーにも企画段階では名前が挙がっていたようだが、選ばれなかったのはこの曲がヒットしてすでに世間に知られてしまったからだろうか。

ツッパリHigh School Rock’n Roll (登校編)/T.C.R. 横浜銀蝿 R.S.

田中康夫の「なんとなく、クリスタル」が出版されたのはこの年の1月だったが、一方で中学校では校内暴力が深刻な問題になっていたのも、同じ日本での出来事だった。リーゼントにサングラス、革ジャンというスタイルで不良少年少女たちの日常をロックンロールにのせて歌ったT.C.R. 横浜銀蝿 R.S.は一定の層から明らかに熱烈な支持を受け、一般的にも流行のポップ・カルチャーとして受容された。現在では全国区になったヤンキーという言葉はまだ近畿地方限定であり、他の地域では「ツッパリ」と呼ばれていたのではないだろうか。暴走族の写真集がベストセラーになったり、猫に不良少年少女の格好をさせた「なめんなよ」関連グッズが売れまくったり、「3年B組金八先生」で不良少女を演じていた三原順子がレコードデビューしてポスト山口百恵と見なされることがあったりしたのも、すべてその延長線上にあったような気がする。

街角トワイライト/シャネルズ

1980年に「ランナウェイ」で華々しいデビューを飾ったものの、一部メンバーの遠征先での不祥事により謹慎していたシャネルズが沈黙を破ってリリースしたシングル。オリコン週間シングルランキングでも「ザ・ベストテン」でも1位を記録したところによると、禊は済んだと国民は判断したように思える。オールディーズな不良感覚というのはヤンキー文化ともゆるく繋がっているような印象もあり、ザ・ヴィーナス「キッスは目にして」、アラジン「完全無欠のロックンローラー」といったこの年のヒット曲もまたその影響を受けたもののように思えるし、「抱かれたい、もう一度」というアダルト・オリエンティッドな曲をヒットさせていたにもかかわらず、矢沢永吉は不良少年たちから絶大な支持を得ていた。

スローなブギにしてくれ/南佳孝

角川映画のメディアミックス戦略は1976年の「犬神家の一族」からはじまり、「読んでから見るか、見てから読むか」は流行語にもなった。これもやはり角川書店から出版されていた片岡義男の小説「スローなブギにしてくれ」の映画化の主題歌である。主演の浅野温子は80年代後半にトレンディー女優として、浅野ゆう子と一緒にW浅野などと呼ばれたりもする。作家、エッセイストの浅野裕子はもちろん浅野ゆう子とは別人であり、読み方も「ゆうこ」ではなく「ひろこ」だが元女優で、「スローなブギにしてくれ」で浅野温子と共演していたらしい。

春咲小紅/矢野顕子

イエロー・マジック・オーケストラのライブ映像は地上波でも普通に流れていたのだが、そこでキーボードを弾いている人として矢野顕子のことをはじめて認知した小中学生は多かったのではないだろうか。カネボウ化粧品のCMソングであり、オリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。作詞は「ヘンタイよいこ新聞」の糸井重里、編曲はイエロー・マジック・オーケストラと、ひじょうに「ビックリハウス」的なヒット曲でもあったのだが、花編こと高橋章子編集長のニックネームは矢野顕子と同じ「アッコ」であった。

ルビーの指環/寺尾聰

寺尾聰は1947年生まれなので、この曲がヒットしていた頃は33、4歳だったことになる。いま考えるとまだまだ若いのだが、当時は中年の魅力などと思ってみていた。力があまり入っていないように聴こえる洒脱なヴォーカルとシティ・ポップ的ともいえるサウンドが受けて、この曲もアルバム「リフレクションズ」もオリコンで年間1位を記録した。「ザ・ベストテン」では「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」と3曲同時にベストテン入りしたり、「ルビーの指環」が10週連続1位を達成したのを記念してルビー色のソファーが作られたりといった話題もあった。

夏の扉/松田聖子

デビュー2年目にしてトップスターであり、出す曲はことごとく大ヒットしていた松田聖子の5枚目のシングル。作曲は前作「チェリー・ブラッサム」に続きチューリップの財津和夫、作詞はこのシングルまで三浦徳子であった(自作の「白いパラソル」から松本隆、さらにその次の「風立ちぬ」では「A LONG VACATION」が絶好調の大滝詠一が作曲・編曲している)。曲のサビの歌詞にもあるように、当時の松田聖子のフレッシュな魅力が爆発したようなサマー・ポップスになっている。

長い夜/松山千春

松山千春は北海道ではデビュー当時からずっと人気があったのだが、「季節の中で」で本格的に全国区になり、「ザ・ベストテン」に旭川のライブ会場から中継で出演したものの、基本的にはテレビで歌うことには否定的な発言をした。ニューミュージックが全般的に下火になったような印象もあった80年代だが、松山千春はこのロック調の曲で過去最高となるヒットを記録した。アップテンポにしようとアドバイスしたのは、レコーディングに参加していたフュージョン・バンド、パラシュートのギタリストでもある松原正樹で、スタッフからはイメージが違うと反対の声もあったが、アーティスト自身の強い要望もあってシングルでのリリースが実現したのだという。

スマイル・フォー・ミー/河合奈保子

河合奈保子は松田聖子と同じ1980年デビューのアイドル歌手で、この頃にはベストテンの常連にもなっていた。歌唱力の高さと明るい笑顔、水着グラビアもひじょうに人気があった。あまりにも素直そうな性格はネタにもされがちで、高校時代の私も投稿していた伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」には河合奈保子を主人公にした「あしたのナオコちゃん」というギャグ漫画が掲載されるほどであった。この曲にはそんな河合奈保子の魅力が弾けんばかりに詰まっていて、「止まらないの はずむ心は ポップコーンみたいに踊る」の歌い出しの時点ですでに最高である。

I LOVE YOU/オフコース

オフコースはこの時点でひじょうに長いキャリアを持つバンドだったが、当時の小中学生の中には1979年の冬にリリースされた「さよなら」のヒットで初めて知った人も少なくないような気がする。80年代の初めには明るくて軽いことに価値があり、暗くて重いのは時代遅れでダサいという風潮がなんとなくあり、その槍玉に挙げられていたのがニューミュージックであった。オフコースはクラスでも地味そうな女子にひじょうに人気があり、小田和正はアイドル視されてもいた。当時、「よい子の歌謡曲」に掲載されたいま思うとミソジニーに塗れた「ブス泣かせの系譜」という文章では、「ブス泣かせ」の芸能人として真っ先にオフコースが挙げられている。そんなわけで、当時、私もまともに聴いていなかったため、実はひじょうに洋楽的でカッコいい音楽をやっていたのだと知ったのは、ついここ数年のことである。

守ってあげたい/松任谷由実

ユーミンこと松任谷由実はずっと人気があったのだが、シングルが爆発的に売れたのはこれが久しぶりだったのではないだろうか。ちなみにクリスマスの定番となった「恋人がサンタクロース」を収録したアルバム「SURF&SNOW」がリリースされたのは、この前の年の冬である。これもまた角川映画で、薬師丸ひろ子主演の映画「ねらわれた学園」の主題歌だったことが大ヒットの要因だったように思われる。当時のキャッチコピーは「才能のきらめきは不思議世代を惑わすか」であり、新しい世代をターゲットにしていたと思われる。

まちぶせ/石川ひとみ

石川ひとみは1978年にデビューしたアイドル歌手で、NHKの人形劇「プリンプリン物語」で主役の声優、フジテレビ系の「クイズドレミファドン」で司会に抜擢されるなど、わりと人気はあった印象なのだが、ニューミュージック全盛の時代にデビューしたこともあり、曲はなかなかヒットしなかった。この曲がヒットしなければもう辞めようと思っていたというデビュー4枚目のシングルは三木聖子のカバー「まちぶせ」で、これが長い期間をかけてのヒットを記録した。この曲を作詞・作曲していたのは松任谷正隆と結婚する前の荒井由実であり、9月24日放送の「ザ・ベストテン」ではこれら2曲のユーミン楽曲が並んでランクインしていたのだった。

ハイスクールララバイ/イモ欽トリオ

漫才ブームの中心的なメンバーを集めたフジテレビのバラエティー番組「オレたちひょうきん族」が土曜の夜に放送開始され、やがてドリフターズの長寿番組「8時だョ!全員集合」を終了に追いやるまでになっていく。EPOがシュガー・ベイブをカバーした「DOWN TOWN」がエンディングテーマに使われるなど、シティ・ポップ的な感覚が若者にウケていたような気もする。それでもお茶の間で圧倒的に人気があったのは、欽ちゃんこと萩本欽一であった。ゴールデンタイムに何本もの冠番組を持ち、そのいずれもが高視聴率で、それらを合計すると100%を超えることから「視聴率100%男」などとも呼ばれていた。番組にまだ世に知られていない芸能人を起用し、スターにしていくことでも知られ、副産物的なヒット曲も多かった。「欽ドン!良い子悪い子普通の子」に出演していた山口良一、西山浩司、長江健次から成るイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」もそのうちの一つである。

イエロー・マジック・オーケストラは1980年のオリコン年間アルバムランキングの10位以内に3作品をランクインさせるなど、社会現象といえる程のブームを巻き起こしたが、それもこの頃にはかなり落ち着いていた。イエロー・マジック・オーケストラはこの年の3月にアルバム「BGM」をリリースして、オリコン週間アルバムランキングで最高2位を記録してはいたものの、内容がおそらく意図的にマニアックなものになっていたこともあり、セールスはかなり落ちていた。テクノブームはもうすっかり消費され尽くしていた、という印象も強い。

そして、イエロー・マジック・オーケストラの細野晴臣によって提供されたのが、この「ハイスクールララバイ」である。イエロー・マジック・オーケストラの略称、YMOは「イモ」と読めなくもないことも、このユニット名の由来の一つではあるのだろう。作詞は松本隆であり、大滝詠一との「A LONG VACATION」や松田聖子「風立ちぬ」などと共に、元はっぴいえんどが大活躍であった。

ユニット名のまた別の由来は、「3年B組金八先生」出身の田原俊彦、野村義男、近藤真彦がそう呼ばれていた、たのきんトリオでもある。この3人が出演していたテレビ番組に「たのきん全力投球!」があるが、「ビートたけしのオールナイトニッポン」にはリスナーがユニークな自慰行為のやり方を投稿する「たまきん全力投球」という身も蓋もないタイトルのコーナーがあった。

イモ欽トリオがこの曲をテレビでパフォーマンスする際のアクションの一部もまた、イエロー・マジック・オーケストラのパロディーだが、メンバー同士がビンタをする箇所はモーニング娘。「わがまま 気のまま 愛のジョーク」に引用されている。

ギンギラギンにさりげなく/近藤真彦

たのきんトリオでトシちゃんこと田原俊彦の次にデビューしたのがマッチこと近藤真彦で、デビュー曲の「スニーカーぶる~す」からヒットを連発していた。作詞はずっと松本隆が手がけていたが、この曲と次のシングルは後の作家、伊集院静こと伊達歩である。近藤真彦の大衆スター的な魅力に相応しい派手な曲で、オリコン週間シングルランキングや「ザ・ベストテン」でも当然のように1位、「日本レコード大賞」では最優秀新人賞を獲得した。「オレたちひょうきん族」では片岡鶴太郎がパロディー化していたことや、当時、近藤真彦には脇毛が生えていないとも言われていて、「ギンギラギンに脇毛なく」という替え歌が一部で流行っていたことも忘れてはいけない。いや、別にいいか。

ス・ト・リ・ッ・パ・ー/沢田研二

1980年代は沢田研二がド派手な衣装を着て落下傘を背負いながら歌った「TOKIO」ではじまった、という印象も強い。常に最強のスーパースターというイメージがあったが、田原俊彦、近藤真彦らの台頭により、ことヒットチャートだけに関していえば、陰りが出てきたように見えなくもなかった。しかし、ひじょうに先鋭的でカッコいいことを芸能界のド真ん中にいながらやってしまうという痛快さにはさらに拍車がかかっていったようにも思える。沢田研二自身が作曲したこの曲は、当時、流行していたネオ・ロカビリーからの影響が感じられ、伊藤銀次の編曲、吉田建、上原裕らが参加していたエキゾティクスの演奏も素晴らしい。

悪女/中島みゆき

中島みゆきの11枚目のシングルで、当時、大きなタイアップやテレビ出演があったわけでもないのだが、80万枚を超える大ヒットを記録した。ライトでポップな感覚が持て囃されがちな時代にあって、本当は孤独なのに遊んでいる振りをする女性をテーマにしたこの曲の暗さのようなものが、どこか共感を得たのだろうか。「中島みゆきのオールナイトニッポン」での明るさとのギャップも、話題になっていたような気がする。

センチメンタル・ジャーニー/松本伊代

「たのきん全力投球!」での田原俊彦の妹役オーディションに合格したのが、松本伊代のデビューのきっかけであった。キャッチコピーは「瞳そらすな僕の妹」で、デビュー・シングルのB面は兄に歌いかける内容の「マイ・ブラザー」。ある程度知られてからのレコードデビューだったが、声質のユニークさがたまらない魅力であった。後のいかにも松本伊代らしいヴォーカルにまだなり切っていない辺りもたまらなく良い。品川プリンスホテルの壁にスーパーボールをぶつけて遊んでいたというエピソードに、東京の女の子を感じた。昨年、夫のヒロミのYouTubeチャンネルで車で一緒に八王子ラーメンを食べに行く動画がアップされていたが、車中で「中央フリーウェイ」をアカペラで歌うのが聴けて、長生きはするものだなと思った。

ハロー・グッバイ/柏原よしえ

松田聖子、河合奈保子と同じ1980年のデビューである。個人的には父に初めて東京に連れてきてもらった時に、後楽園球場でデビュー曲の「No.1」を歌っているのを観たことで思い入れが強く、デビュー・アルバムの「How To Love」も正月のお年玉でジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ダブル・ファンタジー」と同じ日に買っていた。しかし、大きなヒットにはここまでなかなか恵まれず、この曲で初のベストテン入りを果たした。アグネス・チャンが1975年にリリースした「ハロー・グッドバイ」を原曲とするカバー・ヒットであり、喜多条忠の歌詞に出てくる「紅茶のおいしい喫茶店」は南こうせつの兄が大分で経営していた店がモデルだという。そして、その店では歌詞にあるように、本当にカップにハロー、白いお皿にグッバイと書かれていたらしい。柏原よしえはこの曲で「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」にまずは出演し、その後でランクインもしたのだが、最初の出演で一緒に登場した松本伊代とは翌年、「ピンキーパンチ大逆転」で共演することになる。

セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子

これもまた角川映画で、赤川次郎のミステリー小説を原作とする「セーラー服と機関銃」の主題歌である。これまでと違っているのは、主演女優の薬師丸ひろ子が自ら歌っている点だが、これも監督である相米慎二が関係者を説得して決まった話であり、当初、主題歌は来生たかおの「夢の途中」になるはずだったという。結果的に薬師丸ひろ子がこの曲を歌うことになり、レコードデビューが実現した。来生たかおのヴァージョンも「夢の途中」のタイトルのままリリースされ、どちらもヒットしたのであった。

この曲を聴くと、当時、学研から発行されていた「BOMB!」というアイドル雑誌のようなものを買っていたことを思い出す。オカルト雑誌「ムー」と同じ1979年に創刊されていた。「中学一年コース」にも広告が載っているような雑誌だったのだが、美保純のヌードグラビアなども掲載されていたことが思い出される。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。