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The 50 Greatest Love Songs of All Time.

バレンタインデーが近い頃に昨年も別のところでやったような気がする、好きなラヴ・ソングを選んでランキングにしていくやつのアップデート版である。やはり個人的な趣味や嗜好が強く反映していて、客観的なものでは一切ない。しかも、いまの気分が多分に反映されてもいるため、また別の機会にやったとすればかなり内容が変わっている可能性がひじょうに高い。とはいえ、現時点でこのラヴ・ソングがめっちゃ好っきゃねんと謎の関西弁もどきで感じている50曲をカウントダウン形式でのんびりと発表していきたい。

50. はじまるふたり/さいとうまりな (2014)

実は歌っているアーティストについてはいまだによく知らないのだが、数年前に偶然聴いて、とても気に入った曲。堂島孝平が作詞・作曲しているのだが、「確かなこと 確かなこと 確かな鼓動感じてたい 一緒を重ねたい 甘美な感嘆符つきで」「改札口の前で 前髪直して」というフレーズなども含め、恋がはじまったばかりの頃のワクワクフワフワした気分を真空パックしたかのような奇跡的な名曲だと思う。

49. ナチュラルに恋して/Perfume (2010)

ときめきや刺激も良いのだが親密さや安心感こそがとても大切、というようなことを歌っている曲。恋人がいる相手に恋をしてしまい、あわよくば略奪を企てているような場合にこの曲を聴くと病む、ということを風の噂で聞いたことがある。

48. Fell In Love With A Girl/The White Stripes (2001)

「女の子と恋におちた」というタイトルの曲だが、それは退屈な日常においては大騒乱ともいえる出来事なのであり、その激しくも満ち溢れんばかりの気分を音像化したかのようなご機嫌なロックンロール。

47. 桜 super love/サニーデイ・サービス (2016)

四六時中物理的に一緒にいたいというラブラブ状態を歌ったものばかりがラヴ・ソングだとも限らず、この曲の歌い出しは「きみがいないことは きみはいることだなぁ」である。超越的な愛をテーマにしているこの曲には、たとえば真夜中の公園でストロング缶チューハイを飲みながらイヤフォンで聴いてボロ泣きしていたいつかの私のように、必要としている人の魂を救う力がある。

46. あなたがいるなら/cornelius (2017)

「あなたがいるなら この世はまだましだな」と切実に感じられる相手がその時にいるかいないかによって、この曲の刺さる度合いは変わってくるような気もするのだが、心が震えるほどたまらなく好きで仕方がないという経験がある方にならばかなり響くのではないかというような気もする。

45. Lovefool/The Cardigans (1996)

カーディガンズの曲というのは90年代半ば辺りの渋谷とかの感じを思い出させてくれるところもあるのだが、それでいてまるでオールディーズのヒット曲を聴いているかのようなエヴァーグリーン気味な感覚もある。映画「ロミオ+ジュリエット」でも使われていたこの曲もまた然り、というかこれが最もそうなのかもしれない。

44. You Can’t Hurry Love/The Supremes (1966)

シュープリームスとスプリームズ、カタカナ表記する場合にどちらの方が正しいのかいまだによく分かっていないのだが、「恋はあせらず」の邦題で知られるこの曲は最初、フィル・コリンズのカバーで知ったはずである。ダンダンダン、ダッダッダダーンというこのリズムがモータウンの特徴なのだとも知ったのだが、当時はこのパターンのヒット曲がやたらと多かったような記憶もある。

43. I Wanna Be Your Boyfriend/The Ramones (1976)

ガールズ・ポップ的な甘いメロディーと歌詞の曲をパンク・ロックのスタイルでやっている曲。デビュー・アルバム「ラモーンズの激情」に収録され、シングル・カットもされた。

42. The Camera Loves Me/The Would-Be-Goods (1988)

フリッパーズ・ギターのファンで、アニエスb.のベレー帽とボーダーのシャツを着用した上北沢のワンルームマンションに住む女子大学生からもらったカセットテープに入っていた曲。この小洒落た雑貨店のような感覚は当時の私の日常とは程遠いものであり、私もこのレコードをCDではなくあえてアナログで(!)買うことによってその一部を手に入れようとしたのかもしれないのだが、やはりベーシックな部分で無理だったようである。

41. Keep On Loving You/REO Speedwagon (1980)

1981年にものすごく売れたアルバム、REOスピードワゴンの「禁じられた夜」からシングル・カットされ、全米シングル・チャートで1位に輝いたパワーバラード。いわゆる産業ロックと呼ばれる類いの音楽であり、中学生の頃にヒットしていたのでレコードを買って聴いていたのだが、パンク/ニュー・ウェイヴ的なものの方がカッコいいと気づいてからは無かったことにしがちであった。しかし、しばらく経ってから聴いてみるとやはり抗うことが難しい魅力に溢れていて、寝たくもないし食べたくもない、ただあなたを愛し続けたい、というようなベタな内容を肯定したいというような気分にもなる。

40. 愛、かましたいの/Negicco (2016)

Negiccoにはシティ・ポップや「渋谷系」が好きな人達にもウケる良質なポップスがひじょうに多いのだが、堂島孝平の作詞・作曲によるこの曲は少し異色の無国籍ポップ的な魅力が感じられる。

39. Nothing Even Matters/Lauryn Hill feat. D’Angelo (1998)

1998年リリースのとても良いアルバム「ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル」に収録されているディアンジェロとのデュエット曲。

38. To The End/Blur (1994)

ロマンスの記憶にはほろ苦い後悔が伴う場合も少なくはないものだが、それをも含めて実にばかばかしくもあるが尊いものだな、と思えるわけである。オーケストラの演奏やフランス語のセリフなどを効果的に用いたこの曲はそのような感覚をヴィヴィッドに表現しているが、このような曲をキャリアのわりと初めの頃に何気なく発表していたのだから、ブラーというバンドはやはり凡百のブリット勢とは一味も二味も違っていたのだなと感じずにはいられない。

37. Archie, Marry Me/Alvvays (2013)

インディー・ポップの正統的な後継者的音楽に乗せて、ロマンスと結婚と経済状態という今日の若者達にとってひじょうに重要なテーマを歌っている。

36. Sweet Baby James/The Pooh Sticks (1991)

リリース当時は「Who Loves You」というタイトルだったと思うのだが、気がつくと「Sweet Baby James」になっていた。ジェームス・テイラーのアルバム・タイトルでもあるが、歌詞に「スウィート・ベイビー・ジェームスのように君には友達がいる」というフレーズがあり、「You’ve Got A Friend」は「きみの友だち」の邦題でも知られるヒット曲のタイトルでもある。タルーラ・ゴッシュ~ヘヴンリーのアメリア・フレッチャーによるキュートなボーカルをフィーチャーした友達以上恋人未満なインディー・ポップ。

35. Love Goes On/The Go-Betweens (1988)

ラヴ・ソングをコンセプトにしたインディー・ポップの名盤「16ラヴァーズ・レーン」の1曲目に収録された曲。ババーバーバー♪のところがとても良い。

34. 34+35 (Remix)/Ariana Grande feat. Doja Cat & Megan Thee Stallion (2021)

タイトルは簡単な足し算で、答えはセックスポジションをあらわしている。2020年にリリースされたアルバム「ポジションズ」収録曲のリミックスで旬の女性アーティスト、ドージャ・キャットとミーガン・ジー・スタリオンをフィーチャーしている。

33. Into My Arms/Nick Cave & The Bad Seeds (1997)

ボーカルとピアノの伴奏を主体としたシンプルなアレンジの曲だが、それによってニック・ケイヴのボーカリストとしての魅力が堪能しやすくなっているようにも思える。

32. Babies/Pulp (1992)

パルプがブリットポップブームの中心的なバンドとブレイクする少し前にリリースされたシングル。恋人のお姉さんと寝てしまい、見た目がよく似ていたからと弁解するという身も蓋も無さでありながら、あくまでカッコよさげに歌っているところとシンセサイザーが効果的に使われているところが特にとても良い。

31. Let’s Get It On/Marvin Gaye (1973)

「ホワッツ・ゴーイン・オン」では社会派的なメッセージを歌っていたマーヴィン・ゲイだが、この曲ではセクシーなムードに全集中という感じでこれもまたとても良い。

30. Crazy For You/Madonna (1985)

映画「ビジョン・クエスト/青春の賭け」のサウンドトラックに収録された曲で、マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」でブレイクしてから数ヶ月後にリリースされた。それまでダンス・ポップのイメージが強かったマドンナが、バラードもいけると印象づける結果になったような気がする。

29. Call Me/Chris Montez (1965)

A&Mレコーズからリリースされた、クリス・モンテスのイージー・リスニング的な楽曲。これもまたフリッパーズ・ギターのファンで上北沢のワンルームマンションに住んでいた女子大学生からもらったカセットテープに入っていて知った曲。悲しくて寂しく感じることがあったら電話して、というような内容の曲が入ったカセットを電話番号が書かれたメモと一緒に渡されたとすれば、勘違いしてしまうのも無理はないというものである。

28. Shining Light/Ash (2001)

ブリットポップの人気バンドがブーム終焉後にヒットさせたとても良い曲。

27. You Make My Dreams/Daryl Hall & John Oates (1980)

全米シングル・チャートにMTVやシンセ・ポップの影響が及ぶ少し前のイノセントな時代を感じさせる軽快なポップス。映画「(500)日のサマーではとても良い使い方をされていた。

26. Oh! Baby/RCサクセション (1983)

RCサクセションのパブリックイメージからは少し外れた、ビートルズ的でもあるラヴ・バラード。「ぼくをダメにしたいなら ある朝きみがいなくなればいい」と歌われるこの曲を最高のラヴ・ソングだと思い、部屋に遊びに来ていた遊んでいる系の女子と一緒に聴いていたら、こんな女々しい男は嫌だというようなことを言われ、心の中でブルーズが加速し、気がつくと部屋は随分と薄暗くなっていた16歳の夏であった。

25. Your Song/Elton John (1970)

旭川出身のシンガー・ソングライター、片桐麻美が「オールナイトニッポン」の2部を担当していた時にオープニングテーマに使っていた曲。邦題は「君の歌は僕の歌」である。

24. When A Man Loves A Woman/Percy Sledge (1966)

テレビのCMだったか映画のサウンドトラックだったかよく覚えていないのだが、とにかく耳にする機会はわりとあって、ポップ・ミュージックにちゃんと興味を持つ前から知っていた曲。現在の妻と知り合って間もない頃、何かの機会にこの曲をかけていると、「これ『男が女を愛する時』?」と邦題でしっかり聞いてきたことをなぜかいまだに覚えている。

23. Kiss/Prince & The Revolution (1986)

ポップ・ミュージック界の最先端にいた80年代のプリンスだが、この曲は贅肉を徹底的に削ぎ落としたかのようなシンプルに聴こえるアレンジでありながら、ファンクネスはキープされているという革新性がすさまじく、それでいて古典的な求愛ソングとしての側面があり、しかも全米シングル・チャートで1位というとんでもない楽曲だと感じた記憶がある。

22. You And Me Song/The Wannadies (1994)

出だしが静かに入るが途中で盛り上がり、キャッチーなメロディー、バーバッバー♪と、こういったタイプの楽曲としては教科書的ともいえる黄金のパターンで、しかもサムシングエルスな瑞々しさのようなものも感じられる。

21. だいすき/岡村靖幸 (1988)

天才・岡村ちゃんのポテンシャルからしてみるとあまりに普通すぎやしないだろうかと当時は思い、それほど推している方の曲ではなかったのだが、やはりこのポップでキャッチーでありながら破裂しそうなほどのエナジーを抑え込んでいるような感じというのもまた良いものだな、というふうにも感じる。「もう劣等感ぶっとんじゃうぐらいに」というフレーズが入っているところがとても良い。

20. I Only Have Eyes For You/The Flamingos (1959)

80年代の終わりか90年代のはじめにテレビの煙草のCMで流れていて、知ったような気がする。当時、煙草のCMがまだテレビで流れていたのだ。シュボンシュボン、というようなところがとても印象的で、他のオールディーズの曲よりも記憶に残った。

19. How Deep Is Your Love/Bee Gees (1977)

「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックから「ステイン・アライヴ」「恋のナイト・フィーバー」よりも先にシングルでリリースされ、ヒットしていた曲で、邦題は「愛はきらめきの中に」。イントロの電子ピアノのような音とコーラスの時点で、小学生の頃にアーティスト名も曲名も知らない状態ではあったが、ラジオから流れていたような気がぼんやりとしてくる。

18. I Want To Know What Love Is/Foreigner (1984)

愛とは一体、何なのかを私は知りたい、というどこか哲学じみたタイトルを持つパワーバラード。ポップ・ミュージック批評的には軽視されがちな産業ロックでありながら、グリール・マーカスから高く評価されたりもしている。

17. Nothing Compares 2 U/Sinead O’Connor (1990)

失恋ソングもラヴ・ソングに含めた場合、その範疇はかなり広がってしまう訳だが、コンセプトはひじょうにブレてしまうと言わざるをえない。それでもプリンスの楽曲で、ミュージックビデオでの涙が印象的なこの曲は失恋してもなお、心の中で愛がまだまったく失われていないという点で加えることが妥当ではないかと感じた。

16. Crazy/Patsy Cline (1961)

当時、すでにカントリー界のスターだったパッツィ・クラインがまだ無名だったウィリー・ネルソンのこの曲を歌ってヒットさせた。これによって、ウィリー・ネルソンの知名度も上がっていったのだという。恋愛にまつわる絶妙に微妙な狂おしい想いが、抜群のボーカルパフォーマンスで表現されている。

15. Just Like Heaven/The Cure (1987)

80年代のインディー・ロックといえば孤独で淋しい人達が聴く暗めの音楽という偏見が一般的にはなんとなくあったような気もするのだが、だからこそ恋の多幸感のようなものが表現されたこの曲などは尊いところがあったのではないだろうか。

14. At Last/Etta James (1960)

「at last」が「遂に」「とうとう」というような意味をあらわすことは英語教育のわりと初期に習ったような気がしなくもないのだが、この曲も遂に恋が成就して孤独な日々が終わったという喜びについて歌われている。

13. Maps/Yeah Yeah Yeahs (2003)

ヤー・ヤー・ヤーズのフロントパーソン、カレン・Oは当時、他のバンドのメンバーと恋愛関係にあったのだが、お互いに別々にツアーを行ったりしているため、会えない期間がひじょうに多い。そういったリアルな状況における心情を題材にしたのがこの曲だが、ビデオ撮影時にはその不安によって思わず涙がこぼれてしまい、そのシーンが実際に使われてもいる。

12. (Your Love Keeps Lifting Me) Higher And Higher/Jackie Wilson (1967)

恋が順調だと当然テンションが上がり気分は上々な訳だが、おそらくそういうことが歌われているであろうご機嫌なポップ・ソングである。

11. There Is A Light That Never Goes Out/The Smiths (1986)

よくあるラヴ・ソングのコンピレーションCDやプレイリストなどにはほぼ選ばれないだろうと思うのだが、もしも一緒に乗っている車に2階建てバス(あるいは10トントラック)が衝突してきたとしたら、あなたの隣で死ねるなんて、なんて素敵な死に方なのだろう、というようなことを歌っているこの曲はやはりラヴ・ソング以外の何物でもないのではないか、と私は考えるのである。

10. My Girl/The Temptations (1964)

モータウンの人気グループ、テンプテーションズの代表的なヒット曲。好きになった人のことは誰にとっても特別だとは思うのだが、そこにはある種の魔法のようなものが介在しているのではないかとおもう訳である。その最中に彼女が自分に向かって近づいてくる時間というのはこの上なく貴重なものではある訳ではあるが、この「マイ・ガール」という曲はまずイントロの時点でその感じをヴィヴィッドに表現していて、さらにその後がまた最高なのでたまらないのである。

9. Crazy In Love/Beyonce (2003)

恋をしていてクレイジーということがおそらく歌われているであろう、ビヨンセのソロ・アーティストとしては初のアルバムからの先行シングル。

8. I Saw The Light/Todd Rundgren (1972)

何気ない日常の中で突然、恋をしていることに気づいた驚きと感動の広がりのようなものが表現された素晴らしいポップ・ソング。邦題は「瞳の中の愛」である。

7. ラブ・ストーリーは週末に/WHY@DOLL (2017)

シティ・ポップ/AOR的な都会的でアダルトなサウンドにアイドル・ポップス的なキュートなボーカルというギャップの魅力以上に楽曲の素晴らしさ、また、ラグジュアリーなロマンスに対する憧れをヴィヴィッドに表現するメンバーの歌詞やパフォーマンスが幸福な化学反応を起こしているように感じられる。

6. Something/The Beatles (1969)

恋をしている時、その相手には他の人達とは違う何かが備わっているように思える。それは、あるいは魔法のようなものかもしれず。大抵の場合はいずれ解けてしまう訳だが、その間の時間というのは素晴らしいものである。そういったことが歌われている曲のように思える。

5. Wonderful World/Sam Cooke (1960)

歴史や生物学や科学の本やフランス語のことはよく知らないが、あなたを愛しているということは分かっていて、もしもあなたも私を愛してくれているとしたならば、世界はなんて素晴らしい世界になるだろう、というようなことをうっとりするようなボーカルで歌ったとても良い曲。

4. Be My Baby/The Ronettes (1963)

フィル・スペクターがプロデュースしたガールズ・ポップのとても有名な曲。音を尋常ではないぐらいに重ねることによって壁のようにして臨場感を出す的な「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる手法が効果的に用いられている。

3. God Only Knows/The Beach Boys (1966)

ポップ・ミュージック史上最高のアルバムといわれることもある「ペット・サウンズ」に収録された1曲。あなたのことをいつも愛しているわけではないかもしれないが、というような感じではじまるのだが、もしもあなたがいなければ私がどうなってしまうかということは神のみぞ知ることだろう、というようなことがとにかく凝りまくったアレンジと繊細なボーカルで表現されている。

2. Let’s Stay Together/Al Green (1971)

愛のかたちというのはいろいろあるとは思うのだが、ベーシックにはじまりは少しでも長く一緒にいたいと願うことであり、もしもその状態が続くのだとすれば、それを永遠と呼べるのかもしれない。現実的にはひじょうに困難がともなうとしてもだ。1972年に全米シングル・チャートで1位に輝き、1994年には映画「パルプ・フィクション」のサウンドトラックで使われることによりまた多くのファンを獲得したこの曲は、そういった意味で永遠のラヴ・ソング・クラシックだといえるかもしれない。

1. I Say A Little Prayer/Aretha Franklin (1968)

バート・バカラックとハル・デヴィッドが生み出した数々の名曲の中でも特に人気が高いうちの1曲で、「小さな願い」の邦題でも知られる。まずディオンヌ・ワーウィックのバージョンが1967年にヒットし、アレサ・フランクリンによるカバーは翌年にリリースされた。日常生活の中で四六時中ずっと誰かのことを考えているような感覚、しかもそこには祈りにも似た感情があるようだ。そして、やはり永遠が願われてもいる。クイーン・オブ・ソウルと呼ばれるパワフルなボーカルが魅力のアレサ・フランクリンがこの曲ではより小洒落感が漂う演奏をバックに歌っていて、そのバランスもまた良いものである。

ポップ音楽ファンとしての個人的な歴史を100曲で振り返るシリーズPart.5

81. Get Ur Freak On/Missy Elliott (2001)

「これからみんなでめちゃくちゃ踊って、騒ごう騒ごう」という日本語の呼びかけから、まずはじまる。独特なリズムがとても印象的である。中毒性が高くてとても良い。

82. Can’t Get You Out Of My Head/Kylie Minogue (2001)

カイリー・ミノーグのエレ・ポップ的でソフトにセクシーなダンス・ポップ。邦題は「熱く胸を焦がして」である。

83. Hey Ya!/Outkast (2003)

ヒップホップやロックやニュー・ウェイヴなどいろいろな要素が入っていながらも、シンプルでとてもカッコいい曲。

84. Take Me Out/Franz Ferdinand (2004)

ニュー・ウェイヴ的なインディー・ロック・バンドが00年代半ばにはかなり活躍したが、そのきっかけになったような印象もあるとても良い曲。

85. I Saw The Light/Todd Rundgren (1972)

70年代のヒット曲だが、なぜか2004年ぐらいに聴き直してハマりまくる。きっかけは「ヴァージン・スーサイズ」に使われていた「ハロー・イッツ・ミー」だったかもしれない。

86. I Bet You Look Good On The Dancefloor/Arctic Monkeys (2005)

とてもカッコいいインディー・ロック・バンドで、全英シングル・チャートで初登場1位。こういったタイプの音楽としては、当時、快挙だったのではないだろうか。

87. 笑顔YESヌード/モーニング娘。(2007)

いわゆる黄金期にはまったく興味がなかったのだが、ふとしたきっかけでこの時期にきて急激にハマる。この曲はアシッドジャズ歌謡的なサウンド、ソロパートがクルクル入れ替わっていく感じなどがとても良く、初めてCDを買ったのであった。しかも、道重さゆみにハマりまくる前のことである。

88. Paper Planes/M.I.A. (2007)

山口県宇部市の常盤公園を散歩している時にiPodで聴いて、これは良いやと感じ、それからずっと好きな曲である。ザ・クラッシュとか銃声とかレジスターの音とか情報量が多く、しかも政治的なメッセージも込められていて、21世紀のポップ・ソングの中でも屈指のクオリティーなのではないかと思う。

89. 100 LOVE-LETTERS/原田知世 (1996)

ミーハーなので2013年は「あまちゃん」ブームだったのだが、一気に見るために登録していたNHKのオンデマンドでたたま見たドラマ「紙の月」での演技がものすごく良く、個人的に数十年ぶりの原田知世ブームが巻き起こる。それで、トーレ・ヨハンソンとか鈴木慶一とかがかかわっているというこの曲がとても気に入ったし、いまでも大好き。

90. ミッドナイト清純異性交遊/大森靖子 (2013)

「モーニング娘。’14 道重さゆみの今夜もうさちゃんピース」でこの曲がかかり、道重さゆみファンのアーティストとして大森靖子のことは知ったのだが、その才能に驚かされ、収録アルバム「絶対少女」を聴きまくった。

91. あなたとPop With You!/Negicco (2012)

結成は2003年でキャリアは長いのだが、2016年に初めてその音楽を聴いて一気にハマる。アイドルポップスとシティ・ポップという個人的に好きな音楽ジャンルが黄金比ともいえるバランスで溶け合った楽曲に、どうしていままで知らずにいたのだろうと不思議にすら感じた。活動拠点の新潟にも行ったり、関連アーティストのことを知ったりと、このグループを知ったおかげで間違いなく人生がより豊かになった。

92. はじまるふたり/さいとうまりな (2014)

実はいまだにこの歌っているアーティストのことをよく知らないのだが、Apple Musicのおすすめで表示されたのを聴いてすぐに気に入り、それからずっと好きな曲である。恋がはじまった時のポジティブな気分を真空パックしたかのような爽やかさがあり、こういうのが私は本当に好きだなと再認識するのだが、こういったベクトルの曲でこれを超えるものがあるかというと思いつかなかったりもするので、やはりとても良いのではないだろうか。

93. いつかここで会いましょう/カーネーション (2016)

大人の色気とでもいうのだろうか、自分よりも年上のアーティストがこういう音楽をやっているというのはとても良いものだ。当時の自分自身が置かれた様々な状況とリンクしたりしていたのは偶然の運命かもしれないが、個人的にとても重要な曲で、近頃はさっぱり行く機会のないカラオケのレパートリーでもある。

94. 桜 super love/サニーデイ・サービス (2016)

実はよく分からない偏見のため、長らくちゃんと聴いていなかったバンドなのだが、NegiccoのKaedeがビデオに出演していたのがきっかけで聴いてみたところとても好みで、いまでは現役の日本のバンドの中でもかなり好きな方という状態である。それはそうとして、この曲は個人的にいわゆる耐えることができないとてもつらい別れというものに遭遇せざるをえなかった時期に号泣しながら聴いていたという事情もあり、かなり特別だということができる。「きみがいないことは きみがいることだなぁ」という歌い出しの時点で、この曲はもしかするといまの自分のためにつくられたのではないだろうか、などと思い込むのには十分すぎた。

95. 夏休みのBABY/lyrical school (2017)

lyrical schoolはアイドルラップグループで、これはメンバーチェンジがあって新体制となった後の初のシングルであった。とにかく、楽しくやっているのがとても良い。しかも、テーマは夏。この年、雨の代々木公園でNegicco、そして、オープニングアクトにWHY@DOLLを迎えてのフリーライブというのがあり、これもとても良かった。

96. ラブ・ストーリーは週末に/WHY@DOLL (2017)

シティ・ポップ歌謡ということなのかもしれないが、熱量がわりとすごいことになっているのではないかと感じられもして、いわゆる泣きのサックスなども含め、バブリーでトレンディーな気分が感じられもするのだが、そんな時代には生まれてもいないメンバーの作詞とパフォーマンスがうっとりするような恋の魔法を絶妙に表現している。個人的には永遠の名曲という位置づけになっている。

97. 青空シグナル/RYUTist (2018)

新潟を拠点に活動するアイドル・グループ、RYUTistにはクオリティーの高い音楽とパフォーマンスとをストイックに追求しているような印象があり、その一つの到達点が2020年の素晴らしいアルバム「ファルセット」だったように思える。この曲でははじまりの季節にふさわしい、ポジティブな気分が爽やかなポップ・ソングとして表現されている。

98. ただいまの魔法/Kaede (2018)

NegiccoのKaedeがリリースしたソロ・シングル。永遠とはけしておとぎ話ではなく、愛を見つけた時に出会えるものなのだろう、ということを歌ったとても素晴らしい曲。

99. thank u, next/Ariana Grande (2018)

別れた恋人に対し、感謝を伝えて次に進もうというとてもポジティブな失恋ソングなのだが、そこに秘められた強さと表裏一体の繊細さがこのアーティストの魅力なのではないだろうか。

100. 朝になれ/加納エミリ (2020)

札幌出身の気鋭のシンガー・ソングライター、加納エミリの最新シングル。80年代のエレ・ポップに影響を受けた音楽をやっていた時期もあるが、この曲には80年代のR&Bなどの影響が感じられる。個人的な失恋に起因する状況を歌っているようでいて、偶然なのか必然なのか、まるでいわゆるコロナ禍における祈りにも似た思いを歌うような内容にもなってしまった。現在は裏方に徹しているようだが、アーティストやパフォーマーとしてもひじょうに魅力的なので、いつかそういった経験を経て、また新曲を届けてくれることを気長に待っていきたいとも思う。

ポップ音楽ファンとしての個人的な歴史を100曲で振り返るシリーズPart.4

61. September Gurls/Big Star (1974)

「Melody Maker」(というイギリスの音楽週刊紙がその昔あったのじゃよ)に再結成のタイミングで記事が載っていて、渋谷のFRISCO(というCDショップがその昔…以下省略)で1stと2ndが1枚に収録されたやつを聴いたらとても良かった。特にこの曲はパワーポップという勢いのあるネーミングのサブジャンルを代表する最高のチューン。

62. 東京は夜の七時/ピチカート・ファイヴ (1993)

お洒落をして街に繰り出すというなんでもないようなことがしあわせだったと思うというような感慨をいだかせてくれる、あの時代の街の気分を真空パックしたような楽曲。この頃、この曲が似合う街や景色が確実に存在した。そして、この曲の中にはいまもあるように感じられる(待ち合わせたレストランはもうつぶれれなかったとしても)。

63.Get It Together/Beastie Boys (1994)

パンクロック的な「サボタージュ」が有名な「イル・コミュニケーション」はジャンル横断的な意味も含め、90年代でもかなり重要なアルバムなのではないかというような気もするのだが、一方でジャズを取り入れたヒップホップのクールな気分が感じられるのがこの曲である。暑い夏の日のワンルームマンションで、よく聴いていた記憶がある。

64. Live Forever/Oasis (1994)

イギリスのインディー・ロックが盛り上がってきていて、とどめの一撃という感じで登場したオアシスのデビュー・シングルがリリースされたのは、ニルヴァーナのカート・コバーンが命を絶った数日後であった。この曲は3枚目のシングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで初のトップ10入りを果たした。とにかく曲の良さが大きな魅力で、渋谷クラブクアトロでの初来日公演ではすでにこの曲をオーディエンスが合唱していた。

65. Ping Pong/Stereolab (1994)

実験ポップ的でアンニュイな感じがしてとても良かった。西新宿のラフトレードショップで7インチシングルを買ったような気がする。この頃はとにかくあの店でよくレコードを買っていた。

66. Caught By The Fuzz/Supergrass (1994)

勢いを増すブリットポップからは新しいバンドも次々とブレイクし、特にスーパーグラスは若さが迸っていて素晴らしかった。翌年に「オールライト」をヒットさせるが、このデビュー・シングルではガレージ・ロック的な疾走感も感じさせ、とても良かった。

67. Carnival/The Cardigans (1995)

渋谷の街そのものがとても盛り上がっていたような気もするのだが、いわゆる「渋谷系」的なものだけではなく、ギャル文化的なものも含めてである。カーディガンズの CDはおそらく全国的に売れていたとは思いもするのだが、個人的には渋谷の特にクアトロの方のWAVEの印象がひじょうに強い。この頃は渋谷という街に対する依存度が個人的に最も高かったというか、幡ヶ谷ではあったが渋谷区民でもあった訳だが、当時の渋谷の空気感をヴィヴィッドに感じさせてくれる曲という印象が強い。

68. サマージャム’95/スチャダラパー (1995)

この曲の登場人物のように日常的にクラブに遊びに行くような生活を送っていた訳ではないが、含まれている気分のようなものはあるレベルにおいて共有していたような気がする。代々木上原のTSUTAYAで収録アルバムのCDを買った。

69. 若草の頃/カヒミ・カリィ (1995)

カヒミ・カリィのことはビジュアルも音楽も大好きだったのだが、先日、引っ越しの準備中にチラシやポストカードなどがいろいろ出てきて、それを思い出したりもした。日常的にそれほどご機嫌な気分が続いていた訳でもないのだが、いま思い出すとキラキラと輝いていた夏、この曲のような気分は手が届くかもしれないぐらいの距離にあるような気がした。

70. You And Me Song/The Wannadies (1994)

ギターポップというサブジャンルがどのようなものを指しているのかジャストで理解している自信はまったくないのだは、この曲はそういったベクトルにおいてパーフェクトに近いのではないかと感じた。バーバッバー♪というようなフレーズがある曲はだいたい素晴らしいというセオリーを実証する曲のうちの一つでもあるように思える。

71. 情熱/UA (1996)

クラブ・ミュージックはおそらくひじょうに盛り上がっていて、「渋谷系」的な人達の多くはそっちの方面に行ったのではないかと思える。私はそっちには行けなかったのだが、下北沢のコンビニエンスストアでこの曲を聴いた時、クラブ・ミュージックにも遂に流行歌レベルの大衆性を持つ曲が誕生したかと感じたことを覚えている。小泉今日子がラジオ番組か何かで、この曲に言及していた。

72. Where It’s At/Beck (1996)

オルタナティヴ・ロックにフォークやカントリー、ヒップホップの要素も入ったとても良い曲。情報量は多いのだが、和みさえ感じさせるところがとにかくすごい。晴れた休日の午後、下北沢の雑貨店で一緒にいた人が買物を終えるのを外で待っている時に流れていて、とても良いなと感じた印象が強い。

73. Good Enough/Dodgy (1996)

ドッジーというバンド自体は良質なブリットポップバンドとしてわりと好きだったのだが、この曲はより幅広い層に受けそうな音楽性で実際にイギリスでヒットした。結局のところ、こういうキャッチーで平和的な曲が個人的に好きなのだな、ということに気づかされたりもする。

74. Little Jの嘆き/GREAT3 (1996)

90年代の一時期、日本のポップ・ミュージックやカルチャーをごく一部を除いてシャットアウトしていたのだが、新しいバンドでもGREAT3はなぜか好きだった。大雑把にいえば洋楽的な音楽性と、狂気スレスレの悲しみや切なさというようなものが含有されている歌詞が素晴らしく、良質なロックバンドという域を遥かに超越していた。そのエッセンスが特に濃厚に感じられるのがこの曲であり、TVKの「ミュートマJAPAN」でビデオを見てからさらに好きになった。

75. Shangri-La/電気グルーヴ (1997)

「電気グルーヴのオールナイトニッポン」がある世代の人々にとってひじょうに大きな影響をあたえたという話をよく聞くのだが、それについては個人的に縁がなく、実はデビュー・アルバムも買いはしたものの、音楽的には良かったのだが歌詞のセンスがあまり好みではなかった。この曲をどのようなシチュエーションで初めて聴いたのかはよく覚えていないのだが、とにかく画期的に素晴らしく、日本のポップ・ミュージックの可能性を拡張したのではないかと思わされた。この年から日本社会の雰囲気が一気に暗くなっていった印象があり、この曲の美しさはそういった当時の気分と表裏一体となっているようなところも個人的にはある。

76. Doo Wop (That Thing)/Lauryn Hill (1998)

都心とは少し離れたところにいることが多かったこの年なのだが、この曲を収録したローリン・ヒルのアルバムは普段は洋楽をあまり主体的には聴かない人達も含め、幅広い層から支持されていた印象がある。メインストリームの主流はロックやポップスからR&Bやヒップホップに変わっていっていたのだが、このアルバムの売れ方にはそれを強く意識させられたような気がする。

77. Malibu/Hole (1998)

ホールは特別にものすごく好きだったのかといわれるとそうでもないのだが、アルバム「セレブリティ・スキン」からシングル・カットされたこの曲は特別である。スマッシング・パンプキンズ「1979」などもそうなのだが、自分自身と同世代のオルタナティヴ・ロックのアーティストが幼い頃にラジオなどで聴いていたであろうコマーシャルなロックやポップスから影響を受けた感じの曲をやるのがたまらなく良いな、と感じたりもしていた。この曲にはフリートウッド・マック辺りからの影響が感じられるような気がした。

78. Automatic/宇多田ヒカル (1998)

この頃、仕事でメインストリームの日本のポップ・ミュージックについて知っていなければいけない必然性が生じ、いろいろ情報をリサーチするようにもなるのだが、年末近くにリリースされたのが15歳の大型新人、宇多田ヒカルのこのデビュー曲である。個人的に特別に思い入れがあるかというと特にそうでもなかったりはするのだが、イントロが流れるとほぼ同時に当時の感覚が甦ってくる。それと同時に、紛れもないJ-POPクラシックだということができるだろう。日本のポップ・ミュージックにおいても、これぐらいの時期からいよいよR&B/ヒップホップ的なものの方が主流になっていったのだろうか。

79. イージーライダー/深田恭子 (1999)

フカキョンこと深田恭子は新しいアイドル、女優として大人気だったのだが、もうそういったものに現を抜かす年齢でもなかったので(当時はアイドルに夢中になるようなことなど二度とはないのだろうと確信していた)そこには興味がなかったのだが、この曲は有線放送で聴いてとても良いのではないだろうかと、すっかり気に入ってしまったのだった。曲もサウンドも歌も素晴らしいのだが、歌詞が「倫理や論理など振りかざす前に きつく抱きしめてよ 今すぐ」「永遠って言ったって なんだって終わるでしょ 始まってずっと続く恋なんて信じられない」などとにかくもう最高である。

80. Last Nite/The Strokes (2001)

メインストリームのロックが個人的な趣味や嗜好とは本格的に合わなくなってきて、もうそろそろ引退の時期かなと感じていた頃に、このクールでセクシーなロックンロールバンドが登場して、再び一気に盛り上がったのであった。収録アルバムの「イズ・ディス・イット」も全曲すべて最高である。

ポップ音楽ファンとしての個人的な歴史を100曲で振り返るシリーズPart.3

41. Sowing The Seeds Of Love/Tears For Fears (1989)

「ザ・ハーティング」「シャウト」と比べるとそれほど評価されていないような気がするし、その理由もなんとなく分かるのだが、個人的には「シーズ・オブ・ラヴ」のアルバムが大好きである。中期ビートルズ的な感じを分かりやく薄め、80年代的ダイナミズムでブーストしたような表題曲にも抗い難い魅力を感じずにはいられない。ローソン調布柴崎店での深夜バイト中に店内放送でよく流れていた。

42. All Around The World/Lisa Stansfield (1989)

ポップ・ミュージック界の最新トレンドを絶妙に取り入れた上で大衆化してヒットさせるタイプの曲が本当に好きで、これは日本におけるディスコ歌謡だとかハウス歌謡だとかにもいえることなのだろう。ハウス・ミュージックやグラウンド・ビートなどと呼ばれる音楽が流行っていた80年代末でいうと、この曲などが典型例だろうか。

43. Nothing Compares 2 U/Sinead O’Connor (1990)

この曲には当時「愛の哀しみ」という邦題がついていて、収録アルバムは「蒼い囁き」だった。プリンスが作詞・作曲した痛切な失恋バラード。顔のクローズアップだけがずっと映されていて、歌っている途中で涙がこぼれるミュージックビデオも印象的だった。

44. Haircut 100/バスルームで髪を切る100の方法/フリッパーズ・ギター (1990)

この並びで聴くと確かにこういった時期にこの音楽と出会ったのだな、というような記憶が甦ってくる。日本語のポップスとして完全に新しく、まさか可能だとは予想だにしていなかった領域を突破すらしている。これはやはり革命だったのだと感じずにはいられないし、曲の終わりにセックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・U.K.」にも似たスピリットを感じるのもけして偶然ではないような気がする。

45. Vogue/Madonna (1990)

マドンナが今日のポップ・ミュージックやカルチャーにあたえた影響について考えはじめるときりがないのだが、音楽的にはハウス・ミュージックをそれほど薄めずにメインストリームのポップソングに取り入れ、ゲイ・コミュニティのアンダーグラウンドなサブ・カルチャーを取り上げている辺りにもシビれるというもの。

46. Groove Is In The Heart/Deee-Lite (1990)

カラフルでキャッチーでコスモポリタンなダンス・ミュージック。エンディングが「蒲焼きやわらかいっすね」と言っているようにも聴こえる(ビデオではそうは聴こえない)。

47. Kinky Afro/Happy Mondays (1990)

インディー・ロックがクラブ・ミュージックと結びついた音楽がイギリスのマンチェスターを中心に盛り上がり、マッドチェスターとかおマンチェとか呼ばれていたわけだが、グルーヴ感が感じられロック的な要素も強かったハッピー・マンデーズ「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」は特に分かりやすくてとても良かった。六本木WAVEで大量陳列されてもいたので、とても買いやすかった記憶がある。

48. Being Boring/Pet Shop Boys (1990)

ペット・ショップ・ボーイズはユーロビートでヒューヒュー言っているタイプの人々にもなかなか人気があった訳だが、この曲の切なげな感じはすぐに好きになった。確かJ-WAVEの「TOKIO HOT 100」でかかっているのを聴いて、好きになったのだったと思う。

49. Heaven Knows I’m Miserable Now/The Smiths (1984)

ザ・スミスはバンドがまだ存在していた頃から好きで、レコードも買っていたのだが、解散してからしばらく経った後にアメリカ盤のコンピレーション・アルバム「ラウダー・ザン・ボムズ」のCDを買って、個人的なブームが再燃したりもした。この曲などはネオアコ的ともいえる爽やかなサウンドにのせて、いかに働くのが嫌かということを歌っていて最高である。

50. Nothing Can Stop Us/Saint Etienne (1991)

「BEAT UK」のインディー・チャートのコーナーでミュージックビデオの一部を視聴して、これはかなり良いと思い、その日のうちに六本木WAVEでCDシングルを買った。60年代のピュアなポップ感覚を90年代のテクノロジーとエディット感覚でアップデートしたかのような、素敵な音楽。収録アルバム「フォックスベース・アルファ」も最高。

51. Get The Message/Electronic (1991)

セイント・エティエンヌ「ナッシング・キャン・ストップ・アス」を知ったのと同じ回の「BEAT UK」でビデオを視聴してこれもまたすぐに好きになった曲。ニュー・オーダーのバーナード・サムナーと元ザ・スミスのジョニー・マーによるスーパーユニットという評判はさておき、これにもまたピュアなポップ感覚をアップデートした系の良さを感じた。

52. Higher Than The Sun/Primal Scream (1991)

インディー・ロック・バンドのプライマル・スクリームはダンス・ビートを取り入れた素晴らしいシングルをいくつかリリースしていたが、アンビエント・テクノのジ・オーブとコラボレートしたこの曲には、ポップ・ミュージックの可能性を拡張したのではないかと思わせるほどの革新性もあった。

53. Smells Like Teen Spirit/Nirvana (1991)

アメリカのラウドでヘヴィーなオルタナティヴ・ロックは少しずつ盛り上がってきている感じはあったが、あくまでアンダーグラウンド的なシーンに限ってのことだと思えた。それが一気にメインストリームに影響をあたえ、ポップ・ミュージックの様子を永久に変えてしまったのがニルヴァーナの「ネヴァーマインド」だった。これこそがまさに時代を変える音だったのではないか、というような気がするのである。

54. The Concept/Teenage Fanclub (1991)

サウンド的に特に新しく斬新な訳ではなく、基本的にはドラムス、ベース、ギター、ボーカルのロックバンド編成によるものなのだが、重要なのは表面的な新しさだけでは必ずしもなくて、作品として優れているかどうかなのだ、ということを感じさせてくれたのが、ティーンエイジ・ファンクラブの「バンドワゴネスク」。特にこの曲などは、表面的には懐古趣味的に思えるようなところが実は逆に新しいのではないか、と思わせるような素晴らしさだった。

55. The Drowners/Suede (1992)

マッドチェスターもグランジロックも等身大的なところが受けているようなところがあったが、ステージやメディアにおけるグラマラスなスター性であったり、セクシュアルな魅力を復権させたのがスウェードだったのではないだろうか。しかも、というか実はこれが最も重要なのだが、楽曲のクオリティーもひじょうに高い。プレス枚数が少なかったのか、西新宿のラフトレードショップで12インチ・シングルを購入できるまで、少し時間がかかったことが思い出される。

56. Motorcycle Emptiness/Manic Street Preachers (1992)

当初はハッタリをかましているだけのいかがわしいバンドなのではないかと誤解していたのだが、この哀愁に溢れたオルタナティヴ・ロックにして、インテリジェンスを感じさせもする批評のような曲で認識が一気に変わった。渋谷や横浜などで撮影されたと思われるミュージックビデオもとても良い。

57. Babies/Pulp (1992)

70年代から活動していたカルト的なインディー・バンド、パルプもブリットポップブームでやっとブレイクするのだが、そのきっかけとなった曲でもある。ストーリー仕立てのセックスを感じさせる歌詞を、スター性のあるジャーヴィス・コッカーがくねくね動きながら歌う。これが数年後には、メインストリームのド真ん中に進出するのだから痛快であった。

58. Creep/Radiohead (1992)

「NME」のレヴューだけを頼りに西新宿のラフトレードショップで買ったところ、これが大当たり。当時は無名の新人バンドだったレディオヘッドのこの曲は、ラウドとクワイエットの落差を生かしたサウンド、自虐性がアンセミックな域にまで達した表現力が卓越して、こういうのこそがちゃんと売れると良いのだが、と思っていたらちゃんと売れたので本当に良かった。

59. Rudderless/The Lemonheads (1992)

ロックバンド編成のポップ・ミュージックとしては、オーソドックスな感じもあるのだが、クオリティーは明らかに高いアルバム「イッツ・ア・シェイム・アバウト・レイ」からの1曲。「Waiting for somethin’ to break」という歌い出しのフレーズは、当時の私の心境にうまくフィットしたのみならず、とにかくとても良い曲であった。

60. For Tomorrow/Blur (1993)

マッドチェスターのフォロワー的登場の仕方をした印象があるブラーだが、この曲や収録アルバム「モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ」ではレトロ感覚の英国らしさをユーモアたっぷりに表現し、高い評価を得たようなところがある。このセンスはさらに拡張されていき、ブリットポップを代表するバンドの一つになっていった。

ポップ音楽ファンとしての個人的な歴史を100曲で振り返るシリーズPart.2

21. 地球の片隅で(砂漠編)/近田春夫&ビブラトーンズ (1982)

休日にたまたまつけていたテレビでライブ映像を見て度肝を抜かれた曲。エレ・ポップとファンカラティーナと歌謡ポップスが一つになったような素敵すぎる構成で、「少年少女恋すれば 青春一生懸命」などと歌われる。この曲を収録した「VIBRA ROCK」は私が初めて買った12インチだけれど45回転のレコードだったかもしれない。

22. 君に、胸キュン。/イエロー・マジック・オーケストラ (1983)

80年代初めに社会現象ともなったテクノブームはこの頃にはすっかり終息して久しかったのだが、その影響は歌謡ポップス界に及び、後にテクノ歌謡などと呼ばれるような音楽がたくさんつくられる。この曲はテクノポップの本家本元、YMOがテクノ歌謡に挑んだとでもいうようなものであり、化粧品のCMにも使われオリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。1位を阻んだのは細野晴臣によるやはりテクノ歌謡、松田聖子「天国のキッス」であった。

23. Every Breath You Take/The Police (1983)

ポリスはニュー・ウェイヴにレゲエの要素を取り入れたような音楽性、スティングの独特なボーカルなどで日本でも人気があった。サウンドや曲調がひじょうに大人っぽくなったこの曲は純愛ソングだと思われてもいたが、後にストーカー的な心理状態を描いたものだということが明かされる。収録アルバム「シンクロニシティ」は当時、やたらと評価が高かった。

24. Buffalo Gals/Malcolm McLaren (1982)

セックス・ピストルズの元マネージャーでいかがわしいイメージがひじょうに強いマルコム・マクラレンがリリースした邦題「俺がマルコムだ!」というアルバムからの先行シングル。当時はまだメインストリームではなかったヒップホップを取り上げた、ポップな楽曲。アルバムではアフロ・ポップなど様々な音楽が取り上げられていて、とても楽しい。

25. Oh! Baby/RCサクセション (1983)

バンドの状態は必ずしも良くなかったという時期にレコーディングされたアルバム「OK」からの先行シングル。RCサクセションの楽曲としてはやや異色な印象も受ける、ビートルズ的なラヴ・バラード。この年の夏に札幌でサザンオールスターズとの豪華すぎる対バンライブを見た個人的な記憶も含め、ひじょうに思い入れが強い楽曲でもある。

26. 瞳はダイアモンド/松田聖子 (1983)

80年代の松田聖子の作品には当時の日本のポップ・ミュージック界における優れた才能が集中していた、という印象も強い。呉田軽穂こと松任谷由実が作曲したこの曲は、「映画色の街」を舞台としたシティ・ポップ歌謡とでもいうべき素晴らしい出来である。

27. Oblivious/Aztec Camera (1983)

当麻町から通っていたニュー・ウェイヴ好きの友人から、アズテック・カメラのデビュー・アルバム「ハイ・ランド、ハード・レイン」は貸してもらった。エレ・ポップ全盛の時代にあって、ネオ・アコースティックなサウンドが実に新鮮であった。当時の日本では環境音楽的だったりトロピカルでもある音楽として聴かれていたような気もするのだが、記憶違いの可能性もまあまあ高い。

28. My Ever Changing Moods/The Style Council (1984)

日曜夜にNHK-FMで放送されていた「リクエストコーナー」で初めて聴いて、これぞまさに求めていた音楽だと大興奮して、録音したカセットテープを何度も繰り返し聴いた。収録アルバムの「カフェ・ブリュ」を買ったら、別のアレンジのバージョンが入っていたが、アルバム全体がとても良かった。音楽的にバラエティーにとんでいるのだが、全体がある美意識で統一されているようなところがとても良いと感じた。

29. Dancing In The Dark/Bruce Springsteen (1984)

第2次ブリティッシュ・インベイジョンに対するアメリカの逆襲というようなムードも当時は確かあったような気もするのだが、収録アルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」はストレートなロックンロールが逆に新しく感じられた。そして、この先行シングルではシンセサイザーを導入するなど、やや時代のトレンドに寄せてきてもいて、その絶妙な具合が個人的にはとても良いなと感じたのだった。

30. When Doves Cry/Prince (1984)

評論家受けはするのだが、いま一つメジャーに大ブレイクはしないという印象が強かったプリンスだが、前作辺りから本格的に売れてきて、この曲と収録アルバム「パープル・レイン」で一気に爆発した。それにしても、確かにポップでキャッチーではあるのだが、ひじょうにユニークな楽曲であり、これが全米シングル・チャートで1位になったということがまず痛快であった。

31. ミス・ブランニュー・デイ/サザンオールスターズ (1984)

1978年のデビュー曲「勝手にシンドバッド」からいきなりヒットして、シングルのセールスだけは低迷期があったものの、概ね順調であり、この頃には批評家からの評価も高くセールスも好調という、ひじょうに理想的な状態だったように思える。シンセサウンドを効果的に導入したこの曲もサザンオールスターズ節とでもいうような本来の魅力に加えて新しさもあり、ロングヒットを記録した。個人的には学校祭の準備をしていた放課後の校庭のラジカセから流れていた印象がひじょうに強い。

32. When I Think Of You/Janet Jackson (1986)

ジャム&ルイスがプロデュースした収録アルバム「コントロール」により、マイケル・ジャクソンの妹というだけではなく、ソロ・アーティストとしても本格的にブレイクしたといえる。初の全米NO.1ヒットとなったこの曲には80年代ポップスの良いところを凝縮したような、キュートでポップな魅力が溢れているように思える。

33. Be My Baby/The Ronettes (1963)

大学のキャンパスでとても素敵な一人の女子が大好きだといっていたのが理由で、自分でも好きになった曲。オールディーズだとかガールズ・ポップとかスペクター・サウンドとかいろいろなサブジャンルを代表する楽曲といえるが、そういったカテゴライズを超越したポップスの魔法が感じられる最高の録音作品である。

34. Strawberry Fields Forever/The Beatles (1967)

ビートルズは諸事情によりそれまであまりちゃんと聴いていなくて、CD化を機会に系統だてて聴こうと思ったものの途中で挫折していた。この曲はトッド・ラングレンのカバーを聴いてとても良いと思ったので、六本木WAVEのバーゲンでビートルズのオリジナルを買ったのだが、さらにもっと良くて驚かされた。

35. Alison/Elvis Costello (1977)

宇田川町にあった頃のタワーレコード渋谷店でエルヴィス・コステロのベスト・アルバムを買って、この曲のシニカルな感じに衝撃を受けた。

36. 19(nineteen)/岡村靖幸 (1988)

旭川に帰省していて、東京(正確には神奈川)に戻る前夜に「ロッキング・オンJAPAN」でインタヴューを読み、少し気になっていたところ、深夜のFM北海道でこの曲がかかった。ジョージ・マイケル「FAITH」に少し似ているような気もしたが、その独特な日本語の歌詞をメロディーにのせるセンス、そして、テーマは深刻な大問題である性愛についてである。東京(正確には神奈川)に戻ってから相模原のすみやで収録アルバム「DATE」を買って、さらに衝撃を受けることになる。

37. おはよう こんにちは/エレファントカシマシ (1988)

「ロッキング・オンJAPAN」ではひじょうに推していたのだが、あまり売れてはいなかったと思う。バブル景気に浮かれ気分の当時の日本において、孤高とも思える音楽性であった。しかし、そこに切実さを感じ、救いを求めるかのようなテンションで聴きまくっていた。

38. Buffalo Stance/Neneh Cherry (1988)

ヒップホップやクラブ・ミュージックの要素を取り入れたポップスとして、最高にクールでカッコよく思えた。当時における最新型のポップ・ミュージックであり、その強度を今日においてはエバーグリーンなものとして楽しむことができる。

39. Fade Out/小泉今日子 (1989)

当時、最先端のトレンドでもあったハウス・ミュージックを取り入れた歌謡ポップス。KYON2はいつでも最高にクールだし、近田春夫による楽曲はハウス・ミュージック的ではあるが、あくまで歌謡ポップスとしてのツボを外していないところがたまらなく良い。

40. Fight The Power/Public Enemy (1989)

80年代後半のポップ・ミュージック界において、最もラジカルな音楽といえるのは、パブリック・エナミーなどのヒップホップだったと思われる。サウンドの新しさとメッセージ性、それはかつてパンクやニュー・ウェイヴが担っていた役割を引き継いでいるようにも思えた。この曲がテーマソングとして使われていたスパイク・リー監督の映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」は、日本ではこの翌年に公開された。

ポップ音楽ファンとしての個人的な歴史を100曲で振り返るシリーズPart.1

季節的に卒業や入学、別れや出会いとなっていてなんとなく節目的なことがやりたくなってきたので、唐突に個人的なポップ音楽ファンとしての歴史を100曲で振り返ってみたい。という訳で、これから私の個人的なポップ音楽ファンとしての歴史上、重要と思える曲をリリース順ではなく、個人的に好きになった順に挙げながら、毒にも薬にもならないコメントなども付け加えていければ幸いである。それで、おそらく5回に分けてやるうちの今回が第1回で、20曲を取り上げていきたい。

1. ファンタジー/岩崎宏美 (1976)

この時代の岩崎宏美といえば一般的に「センチメンタル」が代表曲なのだが、個人的には断然、「ファンタジー」の方が印象が強いし好きである。この頃、私は小学生で北海道の苫前町というところに住んでいたのだが、家の近所の書店のラジオか何かでこの曲が流れていて、あー良い曲だな、と感じたのであった。それは生まれて初めての経験であった。当時から筒美京平メロディーに反応していたということか。歌詞に「地下鉄」という単語が出てくるが、この頃はまだ見たことがない。そこに都会を感じていた。当時の私にとって、この曲はシティ・ポップとして機能していたのかもしれない。どこか切なげな雰囲気も良かった。当時、岩崎宏美はアイドル歌手という位置づけだったかもしれないが、曲の良さと歌の上手さでは突出していたようにも思える。私の楽曲派アイドル好きとしてのルーツであるようにも思えるし、ビクターから発売されていたというところにもいろいろ感慨深いものがある。

2. 哀愁トゥナイト/桑名正博 (1977)

1977年の春に旭川に引っ越し、ラジオでプロ野球中継を聴くようになった。その流れでずっとラジオを聴き続け、深夜放送にもハマっていくのであった。その頃にラジオでよくかかっていて良いな、と感じていた曲。当時はクレジットなど意識していなかったのだが、後にこれも筒美京平の曲だったのだなと知る。

3. 東京ららばい/中原理恵 (1978)

都会の孤独のようなものが歌われている曲だが、これがとてもカッコよく思え、都会への憧れをより掻き立てたのであった。そして、後に知ることではあるのだが、これも作曲が筒美京平である(作詞は「哀愁トゥナイト」と同じく松本隆)。

4. 横浜いれぶん/木之内みどり (1978)

「刑事犬カール」「野球狂の詩」などでの女優としても好きだったのだが、アイドル歌手ではあるのだがどこか翳りを感じさせるところにたまらない魅力を感じていた。そして、アイドルとして人気がある状態にもかかわらず恋の逃避行というスキャンダルに対しても好感しかいだかなかった。そして、いま思うに声もとても素敵だったのである。90年代に夫の竹中直人とプライベートで買物しているところに遭遇し、かなり感激したことを覚えている。

5. Mr.サマータイム/サーカス (1978)

1978年の夏といえばこの曲と矢沢永吉「時間よ止まれ」の印象がひじょうに強い。やはり大人っぽくて都会的な曲で、当時からこういうのがなんとなく好きだったな、ということが思い出されるのである。

6. 真夜中のドア~Stay With Me/松原みき (1979)

いまやジャパニーズ・シティ・ポップのシグネチャー的な楽曲として、すっかり有名になった曲でもある。当時からラジオではよくかかっていたし、その都会的なセンスは広く共有されていたように思える。それにしても、曲もサウンドも歌もすべて良い。作曲はこれ以降も、シティ・ポップ的な流行歌を量産していく林哲司である。

7. COPY/プラスチックス (1979)

ヒカシュー、P-MODELと共にテクノ御三家などとも呼ばれていた、日本のテクノポップバンドの、これはイギリスでのデビュー・シングルでもあった。ピコピコサウンドなどとも呼ばれた、シンセサイザーを用いたポップスであり、批評的な歌詞やユニークなファッション、メンバー全員がバンドの他にクリエイターとしての仕事を持っている点など、すべてがたまらなくカッコよかった。

8. Coming Up/Paul McCartney (1980)

来日公演が予定されていたのだが、大麻所持によって成田空港で逮捕されたポール・マッカートニー、その後にリリースされたシングルである。中学2年にもなったし、そろそろ洋楽のレコードも買った方が良いのかもしれないと思っていた頃にヒットしていて、ラジオでよくかかっていた曲。ニュー・ウェイヴみたいで単純にカッコよかったので、旭川のレコードも置いている時計店で買った。記念すべき初めて買った洋楽のレコードがこれ。

9. Honesty/Billy Joel (1978)

ビリー・ジョエルは1978年の夏に「ストレンジャー」が日本で大ヒットしたので知っていたのだが、NHK-FMの「軽音楽をあなたに」でいくつかの曲がかかるのを聴いて、レコードを買うことを決意した。しかも、最新作の「グラス・ハウス」ではなく、知っている曲がいくつか入っている前作「ニューヨーク52番街」というところに、私らしさが出ているともいえる。親しみやすいメロディーとニューヨークのイメージが日本の音楽ファンにひじょうに受けていて、洋楽の入門に聴く人もわりと多かったのではないかと思う。

10. RIDE ON TIME/山下達郎 (1980)

本人が出演するカセットテープのCMで初めて知った。これは他の日本のポップ・ミュージックとは違う、とてもカッコいい音楽だと感じた。

11. ユー・メイ・ドリーム/シーナ&ロケッツ (1979)

1979年に発売されていたのだが、翌年の夏におそらく航空会社のCMの影響でヒットした。細野晴臣がかかわっていてアルファレコードだったことから、テクノ/ニュー・ウェイヴの文脈で受け入れられていたような気がする。この曲にも当時のオールディーズ・リバイバル的な気分が反映していたのかもしれない。夏期講習の昼食代を節約して、この曲のシングルを買った記憶がある。

12. Kiss On Mylist/Daryl Hall & John Oates (1980)

全米ヒットチャートをチェックしはじめた頃に1位になっていて、素直にとても良いなと心から強く感じた曲。MTV、第2次ブリティッシュ・インベイジョン、マイケル・ジャクソン「スリラー」などが影響をあたえる以前、80年代はじめの全米ヒットチャートにおける失われたイノセンスを感じさせる、これぞピュアポップといえる楽曲。

13. NIGHT LIFE/佐野元春 (1981)

NHK-FM「軽音楽をあなたに」で聴いて、すぐに気に入った。これこそが探していた音楽だと思えたのだが、ロックンロールのスピリッツをこの時代の日本流に翻訳したかのような素晴らしい楽曲よりも、都会の夜のきらびやかさを描いたこの曲に心奪われた。当時の私にとって、佐野元春もまたシティ・ポップとして機能していたところがあったように思える。

14. Start Me Up/The Rolling Stones (1981)

REOスピードワゴンやジャーニーといった産業ロック全盛でそういうのを好んで聴いていたこともあり、当初はローリング・ストーンズ「刺青の男」が渋すぎるようにも感じられ、よく分からなかったのだが、聴けば聴くほどだんだん良くなり、これぞロックンロールの真髄だと思うようになった。

15. 君は天然色/大滝詠一 (1981)

1981年3月21日のリリースから約1年後にやっと買ったのだが、素晴らしいポップ・ミュージックだと感じた。そこには、大人の世界への憧れも含まれていたが、それがほとんど庶民にとってはフィクションのようなものだということにも、薄々気づいてはいたのだろうか。高校の入学祝いに買ってもらったシステムコンポのスピーカーから、最初に聴こえることを選んだ曲でもある。

16. Good Vibrations/The Beach Boys (1966)

ファンクラブに入っていた早見優がハワイにいた頃によく聴いていたということで、旭川のミュージック国原でベスト・アルバムを買ったのだが、ものの見事にハマってしまった。高校の同級生達と行ったキャンプでも大好評、なんて楽しくて美しい音楽なのだろうと感じたり、それ以来ずっと大好きである。

17. I Keep Forgettin’ (Every Time You’re Near)/Michael McDonald (1982)

オリコンに載っていた東京の輸入盤専門店のチャートで一時期、1位だったのではないかと思う。「ミュージック・マガジン」の中村とうようが嫌いそうな、いかにもなAORサウンドなのだが、これも都会的でとても良いなと感じていた。

18. Steppin’ Out/Joe Jackson (1982)

1982年の秋に開局したFM北海道の番組でかかって、これはかなりカッコいいぞと感じたのであった。夜の街に繰り出すわくわく感が、洒脱なサウンドとボーカルによって、かなり正確に表現されているように思える。

19. I.G.Y./Donald Fagen (1982)

冬休みに遊びに行った札幌のタワーレコードで買ったうちの1枚が、ドナルド・フェイゲンの「ナイトフライ」。音がとても良いともいわれていたような気がする。実に渋い音楽ではあるのだが、そこがまた背伸び感覚をくすぐりもした。

20. Do You Really Want To Hurt Me/Culture Club (1982)

1981年に開局したMTVでは、早くから映像に力を入れたイギリスの新感覚のアーティスト達によるビデオがよくかかっていて、それがヒットチャートにも影響をあたえたといわれる。カルチャー・クラブは確かにビジュアル面でひじょうに強いインパクトを残すバンドではあるのだが、楽曲のクオリティーもひじょうに高い。「君は完璧さ」という邦題がついたこの曲においても、それは十分に感じられる。

1982年の春休みに札幌のタワーレコードに行った時のことなど

中学生の頃のことなのだが、日曜日に友人の家にレコードを持っていき、お互いのものを聴かせ合うということをよくやっていた。私はロックやポップス、友人はソウルやジャズを好んで聴いていたのだが、お互いにジャンルを問わずわりと幅広く好きだったので、なかなか楽しい集いであった。しかし、いわゆる普通の中学生同士なのでそんなにたくさんレコードが買えるという訳でもなく、お互いの持ちネタが早々に尽きてしまうこともあった。そんな時は友人の兄のレコードを聴いた。

友人の兄は旭川の高校を卒業し、札幌の大学に通っているのだという。それで、旭川の実家に置いていったステレオでレコードを思う存分、聴くことができた。イーグルスの「呪われた夜」などを貸してもらったり、シカゴの「サタデー・イン・ザ・パーク」に衝撃を受けたことなどを覚えている。また、ディスコ・ポップの傑作だというようなことが帯に書かれていたヴァン・マッコイ「ハッスル」を聴くものの、いまひとつピンとこないというようなこともあった。

それで、彼と話をしていると、兄からの情報で札幌にはタワーレコードとかいうすごいレコード店があって、なんでもそこでは夥しい量の輸入盤レコードが売られているのだという。レコード店の名前といえばミュージックショップ国原とか玉光堂とかクローバー音響とかマチイ楽器とかそういうのしか知らないわけだが、タワーレコードというのは何だかとてもシンプルすぎる店名であり、なんだか現実感がないようにも感じられた。

1982年の春、松本伊代の「ラブ・ミー・テンダー」を何度もリピート再生し、気合いを入れて臨んだ高校受験には何とか合格することができて、やっとプレッシャーから解放されることができた。それで、札幌に遊びにいこうと思ったのだが、目的は噂に聞いていたタワーレコードである。いまでこそCDを買う人で知らない人はいないのではないかというぐらいの知名度を誇るタワーレコードだが、当時はそうでもなかったと思われる。

というのも、1960年に前身となるレコード専門店がアメリカのカリフォルニア州で開店したというタワーレコードが初めて日本に出店したのは1980年、しかもその1号店はこの札幌店だったのである。しかも、アメリカのタワーレコードに無断で勝手にその屋号を名乗って営業していた店と正式に契約したのだという。現在、札幌のタワーレコードがある場所とは異なり、よりすすきの寄りの中央区南3条西4丁目、五番街ビルの2階にあった。同じビルにはボッサというジャズ喫茶もあったという。

札幌に滞在している間、親戚の家に泊めてもらうことになっていた。札幌駅で叔母とまだ小さかったいとこと待ち合わせをして、ESTAのレストランで食事をした。「ESTAおめでとうフェア」という館内放送が何度も流れていて、いとこが「おめでとうフェアだって」と繰り返し言っては楽しそうに笑っていた。そこから五番街ビルまではいま考えるとかなりの距離があったのだが、とりあえず歩いて何とかたどり着いた。どのように調べて行ったのか、いまとなってはまったく想像もつかないのだが、とにかく無事にたどり着いた。

私がレコードを見ている間、叔母といとこは同じビルの喫茶店で待っているということになった。ドアを開けると、いきなりアメリカだった。いや、もちろん札幌だった訳で、店員も客もほぼ全員が日本人だったに違いない。しかし、店内には輸入盤のレコードばかり、置いてある英字新聞のようなものは自由に持って帰ってもいいようである。今日における「bounce」のようなものだろうか。

全米アルバム・チャートにランクインしているようなレコードが、おそらくほとんどあるのではないだろうか。日本人アーティストのレコードはもちろん、海外アーティストの日本盤すら見当たらない。輸入盤専門店なわけであり、そんな店は旭川には1つもなかった。

タワーレコードの日本での2号店は、1981年に渋谷でオープンしている。これも現在の場所とは異なり、宇田川町の東急ハンズの斜め向かいあたり、現在はサイゼリヤが入っているビルである。ここも当時は輸入盤専門店であり、日本人アーティストのCDも扱うようになったのは80年代後半か90年代の初めぐらいだったのではないか、というような気がする。

さて、わざわざ札幌のタワーレコードまで来てどのようなレコードを買うのかというと、当時は全米ヒット・チャートものぐらいしか聴いていないので、やはりそのようなものになる。旭川でも買えるのではないかといわれるとそれは買えるのだが、タワーレコードで買うということそのものに価値を見いだしていた。それで、買ったレコードはというと、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ「アイ・ラヴ・ロックンロール」、リック・スプリングフィールド「アメリカン・ガール」、カーズ「シェイク・イット・アップ」、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「プライベート・アイズ」と、ベタなものばかりであった。

大滝詠一、佐野元春、杉真理の「ナイアガラ・トライアングルVol.2」がそろそろ発売されている頃ではないかと思い、玉光堂に行った。当時のタワーレコードでは日本人アーティストのレコードは扱っていなかったので、これを買うには他のレコード店に行く必要があった。玉光堂に行くとやはり売られていたので、迷うことなくレジに持って行った。ピンク色のジャケットが売場で輝いていた。このレコードは大滝詠一「A LONG VACATION」のちょうど一年後、1982年3月21日に発売されていたはずである。

杉真理の音楽はこのレコードで初めて聴いたのだが、どこかオールディーズ風な「Nobody」やバラードはニューミュージックすれすれなところもあるが、なかなか良いなと感じたのであった。そして、中学校で一年の頃から好きだった女子と高校は離れ離れになってしまう訳だが、そうなった場合、一体、何を日々生きていく上での動機づけにしていこうかと、わりと真剣に悩んでもいた。しかし、高校に入学して数ヶ月もすると、それはまったく平気になった。この時に人の気持ちというのはいかに適当でいい加減であるかということを、身を持って知らされたような気分になった。

その夜、仕事から帰って来た叔父にタワーレコードの話をするとひじょうに興味を示し、ちょうどリリースされたばかりのサイモン&ガーファンクルのライブ盤を買おうと思っていたということであった。それで翌日、札幌の街で夜に待ち合わせをし、ラーメンを食べてからタワーレコードに叔父を案内した。日本盤よりも価格がかなり安いと私は伝えていたのだが、見てみると思っていたほどではなかったらしく、結局は買わずに帰った。

フリッパーズ・ギター「GROOVE TUBE」について

2021年3月21日は大滝詠一「A LONG VACATION」の発売40周年記念日であり、この日から大滝詠一の様々な楽曲がストリーミング配信解禁されることなどが一部の音楽ファンの間で話題になっていた。その前日、やはりこのことを考えながら引っ越したばかりの調布市内を歩いていて、そういえばフリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」「ヘッド博士の世界塔」などが発売された頃はこの街に住んでいたのだな、と思ったりもしていた。

2021年は大滝詠一「A LONG VACATION」の発売40周年である以外に、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」の発売30周年の年でもある。但し、「ヘッド博士の世界塔」が発売されたのは確かもう少し先の日付だったと思うので、アニバーサリーモードに入るにはまだ早いな、と感じたりもした。そして、朝が来て目を覚まし、ふと考えたのは、そういえば「ヘッド博士の世界塔」の先行シングルにあたる「GROOVE TUBE」が発売されたのは、確かいまぐらいの時期だったのではないだろうか、ということである。調べてみたところ「GROOVE TUBE」の発売日は1991年3月20日、つまり前日が発売30周年記念日だった訳である。

洗濯機を買い替えようという話になっているので、この日はキテラタウン調布のノジマに行く予定だったのだが、雨が降っていて風が強いので外に出たくないということになった。引っ越したばかりで家の中がまったく片付いていなく、調理できる状態でもないので、近所のスーパーマーケットとコンビニエンスストアで食べるものや飲むものを買ってきた。モーニング娘。’21の牧野真莉愛も大好きなセブンイレブンのすみれのチャーハンを久しぶりに電子レンジで解凍して食べたが、このクオリティーはかなりのものである。

「GROOVE TUBE」は8センチCDシングルで発売されたが、当時、すぐに買って、やはりこの街の当時は駅の反対側のワンルームマンションの部屋で聴いていた。その日は今日とは違い、とてもよく晴れた日だったような気がする。1991年3月20日は水曜日で、東京の天候は晴れ、最高気温は22.3℃だったようだ。その頃、いまは無きローソン調布柴崎店で深夜のアルバイトをやっていて、そこそこのお金を稼ぐことができていたのだが、週末に京王線と井の頭線と都バスを乗り継いで六本木WAVEと青山ブックセンターに行って、欲しいだけのCDと本を聴いたり読んだりすることである程度は精神的に満たされてはいたのだが、やはりこのままではいけないというようなことも考えていたのだった。

それでは、いま最も働きたいところはどこなのだと考えると、それは六本木WAVEでしかなかったのだが、アルバイト募集の広告など見たことがなかったし、どうすれば働くことができるのかまったく分からなかった。そんな折り、本当はとっくに卒業しているはずだったのだが、いまだに行かなければいけなかった大学の帰り、いつものように渋谷ロフトの1階にあったWAVEに行くと、契約社員募集というようなことが書かれた掲示がある。本当は六本木が良いのだが、渋谷でも十分すぎるだろうと思い、店員に声をかけた。いろいろあって、渋谷にはいま空きがないが、六本木にはあるという。それで、面接をすることになった。六本木WAVEの近くのビルにある、事務所のようなところだったと思う。面接そのものはわりとあっさりと終わったのだが、その時、ヴァン・モリソンを特集した「レコード・コレクターズ」がカバンに入っていて、それを見た店長が「お、コレクターズ読んでるね」などと言ってくれたことを覚えている。

結果は指定された日時にこちらから電話をして聞くことになっていたのだが、どうせ落ちているのだろうな、というような気持ちの方が強かった。それでも、電話をする直前に気合いを入れるため、ザ・クラッシュの「ステイ・オア・ゴー」を聴いたりはしていた。この曲は1982年のアルバム「コンバット・ロック」からシングル・カットされ、当時、全英シングル・チャートで最高17位を記録していた。これがイギリスでリーバイスのCMに使われたか何かでこの年にリバイバルしていて、解散後にしてバンドにとって初の全英シングル・チャート1位に輝いていた。結果的には採用であり、それから六本木に通うようになった。

フリッパーズ・ギターのCDが初めて発売されたのは1989年8月25日、デビューアルバムの「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」だった。この年はつまり平成元年であり、7月13日には山口県で道重さゆみが生まれたということも重要である。そして、私は小田急相模原から調布に引っ越し、それは大学の進級により通学するキャンパスが厚木から渋谷に変わったことによるものだが、引っ越したばかりのワンルームマンションのすぐそばにあったローソン調布柴崎店でアルバイトをはじめた。その頃、テレビでエースコック大盛りいか焼そばのテレビCMがよく放送されていて、新生活に気分に相応しいとても良い内容であった。また、このCMで使われていた楽曲、グラス・ルーツ「いまを生きよう」もとても良かった。

青山キャンパスの学食でイギリスのニュー・ウェイヴ好きの知り合いと、偶然に出会った。ここでいうニュー・ウェイヴというのはいま用いられているそれとは違って、メインストリーム以外のロックに対してかなり広く使われていたもの。一時期の日本におけるニューミュージックみたいなものだろうか。それで、最近、聴いている音楽の話になった。私は特にザ・スミスが解散した1987年辺りからいわゆるギター・ロックがそれほど良いと思えなくなっていて、ヒップホップやハウス・ミュージックのCDやレコードをよく買っている時期であった。知り合いは最近、日本のフリッパーズ・ギターというバンドを聴いていると言っていて、アズテック・カメラやザ・スタイル・カウンシルが好きなら気に入るはずだと、レコメンドしてもくれたのであった。確かにアズテック・カメラやザ・スタイル・カウンシル、エヴリシング・バット・ザ・ガールとかチェリー・レッドの「ピローズ&プレイヤーズ」とか高校生の頃に好きで聴いていて、その時点でも好きではあったのだが、パブリック・エナミーやデ・ラ・ソウルが新しくてカッコいいアルバムを出しているご時世に特にそれほど聴きたい音楽でもないな、と感じていた。

J-WAVEで現在も続いている「TOKIO HOT 100」は1988年の秋から放送が開始されたのだが、この頃、深夜のテレビでこれのダイジェスト的な番組があったはずである。フリッパーズ・ギターの曲もランクインしていて少しだけ流れたのだが、確かにネオ・アコースティックのようでセンスを感じさせるのだが、最新型のポップ・ミュージックとしての魅力はそれほど感じなかった。あとは歌詞が英語だったので、これならば本場のネオ・アコースティックを聴いた方が良いのではないか、などと実にくだらない感想を持ったりもしていた。

しかし、なんとなくメディアで取り上げられる機会も増えたような印象があり、確か何かのCMに使われていたと思うシングル「フレンズ・アゲイン」は良いなと思ってシングルCDを買うのである。8センチのCDシングルは縦長のケースのパッケージで販売されていたことから、短冊CDなどと呼ばれたりもするが、当時はそうではなかったような気もする。CDの売上がアナログレコードを逆転するのは80年代の半ばを少し過ぎた辺りなのではないかと思うのだが、8センチCDシングルが登場したのは1988年2月21日、それまでの間、アルバムはアナログレコードよりもCDがすでに主流なのだが、シングルはアナログレコードでしか発売されないという期間が存在した。

「フレンズ・アゲイン」は1990年1月25日に発売、この頃、個人的にCDシングルを買うことが少し楽しくもなっていて、高野寛「虹の都へ」、EPO「エンドレス・バレンタイン」、ドリームス・カム・トゥルー「笑顔の行方」なども買っていた。洋楽ではシニード・オコナー「愛の哀しみ」やリサ・スタンスフィールド「オール・アラウンド・ザ・ワールド」などが気に入っていた頃である。

そして、この年の5月5日にフリッパーズ・ギターはシングル「恋とマシンガン」をリリースする訳だが、これには完全に度肝を抜かれた。当時の日本のポップ・ミュージック界では前の年に放送を開始した「イカ天」こと「三宅裕司のいかすバンド天国」の影響もありバンドブームで、ビートパンクと呼ばれるような音楽が流行ってもいたのだが、フリッパーズ・ギターの音楽というのはこういったトレンドとはまったく関係がない。それこそネオ・アコースティックだとかインディー・ポップ、映画音楽だとかボサノヴァといったおしゃれでセンスの良い音楽から影響を受けたようなものである。ということは、一部のセンスの良い人達には受けるのだが、一般大衆的にはれほどでもないというようなパターンで終わりそうなものである。

ところが、これは何だか一般大衆向けにもかなり良いのではないか、と感じさせるものがあったのである。なぜそう感じたのかというと、私自身がマイナーでアンダーグラウンドなものを良いと感じる素質に著しく欠けていて、基本的にはポップでメジャーなもの、もしくはそうなる素質を備えているものにのみ反応するという趣味嗜好であるからなのだ。あと、これはもちろんひじょうに重要なのだが、歌詞が日本語ということである。しかも、いわゆる日本のポップ・ミュージックという感じではまったくない。

たとえば桑田佳祐、佐野元春、岡村靖幸などは、それぞれそれまでの日本のポップ・ミュージックの歌詞では表現できなかったことを表現するための新たな手法を生み出した革命児だと思うのだが、フリッパーズ・ギターはまたそれをさらにアップデートしたな、とそのような感じが「恋とマシンガン」「バスルームで髪を切る100の方法」という2曲を聴いただけで強烈にしたのであった。音楽的には美意識に則ったものができるのかもしれないが、日本語の歌詞を付けた途端にそうではなくなってしまうので英語の歌詞を歌うという、そういうのは確かにあるとは思うのだが、それによってひじょうにクオリティーの高い作品がつくれる可能性はあるとしても、日本の一般大衆レベルでポピュラーになることはひじょうに難しいのではないか。別にそれを必ずしも目指さなければいけないということではまったくないし、そうではなくても素晴らしい作品はたくさん存在する。ではあるのだが、こうでなければ届かなかった人々や変わらなかった世界というのは確実にある。もちろん、より素晴らしい方にである。

「恋とマシンガン」とこれを先行シングルとするアルバム「カメラ・トーク」によってフリッパーズ・ギターが行ったことはまさに革命であり、これによる影響や恩恵を当時の私は確実に受けたのであった。

「宝島」という雑誌でフリッパーズ・ギターが「フリキュラマシーン」という連載を持っていて、タイトルは私を含むフリッパーズ・ギターと同世代にはお馴染みのかつて放送されていた朝の子供向けテレビ番組「カリキュラマシーン」のもじりである。これがひじょうに生意気かつ痛快な内容であり、あらゆる事象に対していろいろと毒づいていた。音楽はポップで爽やかでもあるのだが、アティテュードとしてはパンクであるという、これはたとえばイギリスのニュー・ウェイヴ系アーティストのインタヴューを読み慣れていればそれほど珍しくもないのだが、それを日本でやってしまったというか、実際にちゃんと成立するのだ、と思わせてしまったところがやはりすごい。

それで、「GROOVE TUBE」なのだが、それまでのネオ・アコースティック的な音楽性から一転して、ダンス・ビートを取り入れたことが話題になったりもしていた。これも当時のイギリスのインディー・ロックシーンのようなものと完全にシンクロしていて、日本のメディアではインディー・ダンス、現地においてはマッドチェスターなどと呼ばれていたインディー・ロックにダンス・ビートを取り入れたタイプの音楽から強く影響を受けたものであろう。たとえばプライマル・スクリーム「ローデッド」「カム・トゥゲザー」、ザ・ストーン・ローゼズ「フールズ・ゴールド」、ザ・ファーム「グルーヴィー・トレイン」といったところが参照されるところだろうか。

そして、それ以前のフリッパーズ・ギターもけしてネオ・アコースティックというサブジャンルで括れるような音楽をやってはいなく、「カメラ・トーク」なども実際にはかなりバラエティーにとんだアルバムであった。「カメラ・トーク」において、「恋とマシンガン」の次に収録されている「カメラ!カメラ!カメラ!」が後にリリースされたギター・ポップバージョンの方だったらあのアルバムはもっと良くなったという意見を見かけたりもするのだが、個人的にはあれが打ち込みっぽいバージョンだったからこそあのアルバムのエクレクティックな魅力が早期において予告され、聴き進めていくとその期待を遥かに上回るものだった、ということに繋がっているのではないかと感じている。あとは、やはり打ち込みのビートが特徴的な「ビッグ・バッド・ビンゴ」がひじょうに重要だと思える。

あとは歌詞がキャンディーやバナナが出てくるセクシー路線で、それまでにはない新機軸だったり、相変わらず分かる人が聞けば分かるけれども分からなかったとしても問題はなく、けして置いてけぼりにもしていない数々の引用やオマージュというところももちろんあるのだが、トータルとしてとても納得のいくかたちで新しいことをやっていて、この次にどんなことをやってくれるのだろうとわくわくさせてくれたような印象である。それと、当時の海外のポップ・ミュージックのトレンドに呼応していた、というか国内のことはほとんど意識していなかったように見えもするところがやはり特徴的であり、今日の日本のポップ・ミュージック界におけるいわゆるガラパゴス化がけして悪いことばかりとは思わないし、その中でも海外のトレンドやメインストリームを意識している人達もいて、いろいろバラエティーにとんでいるなと感じている立場からしても、状況はかなり変わっているなという印象は受ける。

それで、「GROOVE TUBE」はこの年のオリコン週間シングルランキングの4月1日付で22位に初登場し、それが最高位となるのだが、それよりも上位にランクインしている、小田和正、Wink、チェッカーズ、ASKA、織田裕二、児島未散、沢田知可子、Mi-Ke、KAN、やまだかつてないWINK、尾崎豊、酒井法子、ZARD、渡辺信平、森口博子、氷室京介、山下久美子、久保田利伸&アリソン・ウィリアムズ、堀川早苗、川村かおり、CHAGE&ASKAの楽曲のどれ一つとして、個人的にはリアルタイムでほとんど興味がないかまったく知らないので、やはり孤高の存在だったのではないかという気がしないでもない。それゆえに、今日まで語り継がれるほど特異だったともいえるのだろうが。

「GROOVE TUBE」のことを考えているとなんとなくハンバーガーが食べたくなってきたのだが、CDシングルのジャケット裏面には「eat Mac, drink Coke & let’s listen to Groove Tube」というようなことが印刷されてもいた。外は相変わらず雨が降っていて風も強く、マクドナルドまでは少し遠い。本日発売の加納エミリ・プロデュース、鈴木祥子「助けて!神様。~So Help Me, GOD!」の7インチシングルも買いに行かなければいけないのだが、キテラタウン調布のバーガーキングでワッパーとオニオンリングを買って帰りたい。

大滝詠一「A LONG VACATION」について

1981年3月21日は中学校の春休みで、土曜日だったのでおそらく「お笑いスター誕生‼︎」(アゴ&キンゾーが3週目の勝ち抜きで銅賞を獲得)を見た後で、自転車に乗って旭川の市街地まで行ったのではないかと思う。当日の旭川の天候は曇りのち晴れ、最高気温は6.1°だったようだ。3月の後半でこんなにも寒かっただろうか、40年前はこれぐらい寒かったということなのだろうかと思い、今年の3月21日の旭川の天気予報を調べてみたところ、天候は雪で最高気温は4℃ともっと寒かった。

それはそうとして、1981年の3月21日といえば旭川のミュージックショップ国原にまだビルボードのチャートが載った紙を取りには行っていないが、「オリコン・ウィークリー」は買いに行っていた。レコードの売上ランキングの他にもいろいろ載っていて、大滝詠一の「君は天然色」は確かラジオ放送回数のランキングで上位に入っていたような印象がある。

はっぴいえんどやその後のソロ・アーティストとしての作品、CMソングなどその時点で大滝詠一はすでに重要な足跡を日本のポップ・ミュージック界に残していた訳ではあるが、基本的にはヒットチャートを追いかけているだけの中学生だった私にはまったく未知の存在であった。少なからず接点があったとすれば、好きで劇場に見に行っていたアニメ映画「がんばれ‼︎タブチくん‼︎」シリーズ第2弾以降のエンディングテーマ「がんばれば愛」を大滝詠一が作曲していたことぐらいだろうか。

なんだかよく知らないのだがなんとなく話題になっていて、ラジオでもよく聴くような気がするというような印象だったのだが、爽やかな感じのする音楽だなとは感じていた。

中学校の修学旅行があったのは確か5月の半ば以降で、部屋のテレビではスタートしたばかりの「オレたちひょうきん族」が流れていたような気がする。宴会ではクラス対抗の演芸大会のようなものがあり、当時、大ヒットしていた寺尾聰「ルビーの指環」の形態模写をやる者などもいたが、私は「お笑いスター誕生‼︎」でグランプリを獲得したばかりで注目されていた九十九一の一人コントのようなものを半煮えの状態でやろうとして盛大にすべった。

帰りに旭川駅前で解散となったのだが、その後、友人と駅前の平和通買物公園をぶらついたりした。私はシーナ・イーストン「9 to 5(モーニング・トレイン)」のシングルを買ったのだが、その時、最近は大滝詠一というアーティストのことが気になっているが知っているか、などという会話をしたことを覚えている。

「A LONG VACATION」は発売されてすぐにものすごく売れた訳ではなくて、じわじわと売れていき、気がつけばオリコン週間アルバムランキング最高2位、年間でも寺尾聰「リフレクションズ」に次ぐ2位という大ヒットを記録していた訳である。この時点で大滝詠一はテレビにも出ず、シングルが大きくヒットした訳でもない、過去に評価が高い作品はたくさんあったと思われるが、一般大衆的なヒット作というのはほとんど無かったのではないだろうか。にもかかわらず、「A LONG VACATION」はどうしてこんなにも売れたのだろうか。音楽マニアがこぞって買っただけで達成できるセールスではなく、国民的ヒットアルバムといって良いほどの規模感であった。

上記のような考察のようなことをやんわりとやっていると、当時はオールディーズリバイバル的な空気感が世の中に漂っていて、一方でベストセラーになった田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」に見られるような、AORのような都会的で大人っぽい音楽がカッコいいとされてもいた。この前の年の日本のポップ・ミュージック界のトピックといえばYMOを中心とするテクノポップ、そして、松田聖子、田原俊彦のブレイクによるアイドルポップスの復権が挙げられるが、山下達郎が出演したカセットテープのCMソングでもある「RIDE ON TIME」のヒット(オリコン週間シングルランキング最高3位)により、シティ・ポップと後に呼ばれるような音楽がお茶の間に浸透しはじめたりもした。

このような時代の気分のようなものを無意識的にも最大公約数的かつ絶妙なバランスで掬い上げ、欲望をマイルドに満たす機能が奇跡的にこの作品に備わっていたのではないか、とかそんなことを感じたりもしたのだが、実際のところはどうなのだろうか。

いずれにせよ私は「A LONG VACATION」をいわゆるその時代の流行りものとして捉えていて、それゆえに好きだったことは間違いない。しかも、買ったのは発売から1年以上経った1982年の春であった。「A LONG VACATION」の丁度1年後に発売された「ナイアガラ・トライアングルVol.2」よりも後ということである。あのアルバムは大好きな佐野元春が参加していたから買ったのであり、それに収録されていた大滝詠一の曲も良かったし、なんとなくこれは買っておかなければいけないのではないかというような気がしたので、「A LONG VACATION」も買った。高校の入学祝いにはシステムコンポというレコードやカセットテープやラジオを聴くためのステレオを買ってもらったのだが、家に届いてから最初に再生したレコードが「A LONG VACATION」であった。

レコードに針を落とすと最初にスピーカーを震わせる音はピアノであり、他にも何かいろいろな楽器の音がしている。このアルバムは架空のコンサートを想定していて、これは1曲目を演奏する前のチューニングなのだという。「A LONG VACATION」と同じ日にリリースされた「君は天然色」もシングルでは、この部分がカットされているということである。そして、ドラムスティックのカウントに続き、あのポップスの魔法が宿っているかのような躍動感あふれるイントロがはじまる。

「A LONG VACATION」を音楽に対する知識量やリスナー歴がまだまだ浅い中学生の頃にはじめて聴いてよかったと、自分では思っている。「A LONG VACATION」にはそれまでのポップ・ミュージック史の様々な要素が参照され、引用されてもいるところが多々あるのだが、それらを日本のポップ・ミュージックというフォーマットに落とし込み、しかも大ヒットさせてしまったというところが実にすごい訳でもある。たとえばこの時点ですでにこれらの音楽に親しんでいたならば、その参照や引用のセンスを実に面白いものとして楽しむことができたに違いない。しかし、当時の私はまったくそうではなく、それゆえにこの他の日本のポップ・ミュージックとは明らかに違うのだが、何だかとても良い音楽は何なのだろう、どうやったらこのような音楽ができるのだろう、などと感じることができたのかもしれない。それゆえに私はたとえばフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」が世に出た時に14歳ぐらいで夢中になった人達のことをとても羨ましく思ったりもするのである。

「A LONG VACATION」のことを当時、シティ・ポップと呼んでいたかというと、おそらく呼んでいなかったような気もするのだが、ここら辺については断言するほどの自信はない。とはいえ、当時、中学生や高校生で大滝詠一「A LONG VACATION」や山下達郎「FOR YOU」(1982年1月21日)といったレコードを聴く場合、そこにはカッコいい大人に対する憧れというような感覚があった。佐野元春「SOMEDAY」(1982年5月21日発売)などに対しては、少し年上のイカした兄貴という感じだっただろうか(実際には10歳も年上だった訳だが)。

「君は天然色」は実にポップでキャッチーな楽曲であり、当時、シングルでそれほどヒットした訳ではないけれども(アルバムと同時発売でオリコン週間シングルランキング最高36位というのはまあまあのスマッシュヒットだとは言えなくもないけれど)、その後、多くのテレビCMに使われるなどして、いまや日本のポップ・ソングクラシックスの1曲としてすっかり定着しているように思える。

「BREEZEが心の中を通り抜ける」というアルバムのキャッチコピーがあらわしているように、「A LONG VACATION」には爽やかな夏のイメージがあり、そのはじまりがこの「君は天然色」である。ひじょうにポップで爽やかな曲ではあるが、その内容はそれほど明るくはない。現在は想い出の中にしかいない人のことを忘れることができず、彼女がいた過去は「しゃくだけど今より眩しい」というようなものである。しかし、これをこのようなポップで爽やかな楽曲として歌っているところが実に素晴らしいな、と感じるのである。

「A LONG VACATION」が発売された1981年には漫才ブームの余韻はまだ続いていて、この年の元旦に発売されたザ・ぼんち「恋のぼんちシート」はオリコン週間シングルランキングで最高2位の大ヒットを記録した。この曲ははっぴいえんどのことはフォークだと思っていて、仲よくしようとは思わなかった、というようなことを言っている近田春夫である(内田裕也一派なのでさもありなんという感じではある。個人的に近田春夫&ビブラトーンズの「ミッドナイト・ピアニスト」もまた、1981年の名盤であるとは強く感じているところではある)。同じ日に放送を開始した(第1回は録音だったが)「ビートたけしのオールナイトニッポン」が大人気となる。

ビートたけしが一時期、コミックバンドをやろうという話になって、そのネタをリスナーからハガキで募集するというコーナーがあった。深夜のテンションというのもあり、キャロル「ファンキー・モンキー・ベイビー」の「君はFunky Monkey Baby」というところを「君はフランキー堺」とかいう酷いものが採用されていた(太平サブロー・シロー「稲妻ベイビー」などはこれとほぼ変わらないようなものではあるが)りのした。そんな中、秀逸だと感じたのは大滝詠一「君は天然色」の印象的な歌い出し「くちびるつんと尖らせて 何かたくらむ表情は」をもじった、「くちぶるつんと尖らせて 何かたくらむ清張は」というものであった。この「清張」というのは当時のベストセラー作家、松本清張のことであり、確かにくちびるをつんと尖らせているように見えていた。ビートたけしの反応がいまひとつだったのは深夜のテンションに合っていなかったのか、それとも「君は天然色」が元ネタとしては知名度的に弱かったからなのか、それでも番組の単行本にも掲載されていて、松本清張の似顔絵のようなイラストまで添えられていたと思う。

それにしても「天然色」というのはカラーということであり、「モノクローム」と対比されているのだが、この写真のイメージは前の年に宮崎美子のCMがヒットした「いまのキミはピカピカに光って」だとか、モンキーズ「デイドリーム・ビリーバー」が使われリバイバルヒットの要因ともなったコダックフィルムのCMを思い起こすようなところもある。昔の映画で「総天然色」というようなコピーがあったように、この言葉そのものはどこかレトロな雰囲気を漂わせるものであった。

あとは、「渚を走るディンギー」とは一体何なのだという問題もあるのだが、「ディンギー」とはキャビンのない簡素なヨットのようなもののことらしい。この曲と同じ松本隆が作詞した松田聖子「白いパラソル」(1981年7月21日発売)には「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」というフレーズがあり、やはり「ディンギー」が登場している。

この曲を収録した松田聖子のアルバム「風立ちぬ」は「A LONG VACATION」の7ヶ月後にあたる1981年10月21日に発売されているが、このアルバムではヒットした表題曲をはじめ、A面の5曲(「冬の妖精」「ガラスの入江」「一千一秒物語」「いちご畑でつかまえて」「風立ちぬ」)を大滝詠一が作曲・編曲(クレジット上は作曲が大瀧詠一で編曲が多羅尾伴内)している。それぞれの曲が「A LONG VACATION」収録曲に対応していて、裏「A LONG VACATION」的な楽しみ方もできるようになっている。「いちご畑でつかまえて」と「FUNx4」とをマッシュアップした音源を大滝詠一がつくり、それを自身のラジオ番組でかけたりもしていたのだが、これは2020年にリリースされた松田聖子のアルバム「SEIKO MATSUDA 2020」に「いちご畑でFUNx4」として収録されたのだが、配信版からは除外されている。「白いパラソル」の作曲は財津和夫で、B面の3曲目に収録されている。この曲の編曲は大村雅朗だが、B面の他の4曲を編曲しているのは、このアルバムの収録曲すべての作詞者である松本隆、A面全曲の作曲・編曲者である大滝詠一らと共にはっぴいえんどのメンバーであった、鈴木茂が手がけている。

もう一人のはっぴいえんどといえば細野晴臣だが、松田聖子には1983年4月27日発売の「天国のキッス」以降、楽曲を提供するようになる。細野晴臣が在籍していたYMOことイエロー・マジック・オーケストラ「君に、胸キュン。」のオリコン週間シングルランキングでの最高位は2位だが、その週の1位が松田聖子「天国のキッス」であった。

それはそうとして、A面全曲の作曲・編曲を大滝詠一が手がけた松田聖子「風立ちぬ」と同じ1981年10月21日にはナイアガラ・トライアングル(大滝詠一・佐野元春・杉真理)の「A面で恋をして」も発売されている!

「A LONG VACATION」のA面2曲目に収録されているのが、「Velvet Motel」である。現在はどうなのか定かではないのだが、当時、旭川の中高生にとって、「モーテル」といえば台場あたりにあるラブホテルのことでしかなく、その中にはお城のような形をしているものなどもあった。そういった訳で、「モーテル」とはなんとなくエロいものというような印象もあったのだが、中学校の校則で頭髪を五分刈りにしていたにもかかわらず片岡義男のサーフィン小説などを愛読していた私は「モーテル」というのはアメリカでは車で移動する人達がカジュアルに泊まるための宿ぐらいの意味だということをなんとなく知っていたので、「モーテル」という単語に対して過剰な反応を見せる同級生などに対し、マイルドなマウントを内心で取っていたりもした。そういった意味でも、この「Velvet Motel」という曲にはわりと魅かれるところがあった。

佐野元春のアルバム「Heart Beat」は「A LONG VACATION」よりも少し早い1981年2月25日に発売されていたのだが、これに収録されていた「ガラスのジェネレーション」「NIGHT LIFE」「君をさがしている(朝が来るまで)」をNHK-FMの「軽音楽をあなたに」で聴いたのをきっかけに、私は佐野元春の大ファンになった。「A LONG VACATION」は話題になっていて、興味はひじょうにあったものの、レコードを買うまでには至っていなかった。佐野元春はこの年の6月25日に代表曲の一つでもある「SOMEDAY」をシングルでリリースするのだが、当時はあまり売れていなかった。新進気鋭のアーティストとして音楽雑誌で名前を見たり、ライブハウスの新宿ルイードで大人気だったりというような情報はあったが、世間一般的にはまだまだメジャーではなかった。

それで、「Velvet Motel」を初めて聴いた時に、佐野元春「Heart Beat」に収録されていた「GOOD VIBRATION」という曲にイントロが少し似ているなと感じ、それでグッと親しみが持てたというようなところもあった。

これもまた明らかに当時の自分自身よりもかなり年上の大人達のことを歌っているようだが、そこに憧れを感じてもいた。そして、サウンドは都会的でポップなのだが、内容はけして明るくはない。「お前の無表情」とか「空っぽな瞳をしてる俺たち」というフレーズが出てきて、この冷めているというかクールな感じは、かつて強く愛し合っていたのに、その想いがいまはもう冷めてしまったということをあらわしているのだが、当時はその雰囲気自体がなんだかとてもカッコいいなと感じて聴いていた。それは、日本文学的な湿っぽさを排除し、アメリカ文学から強く影響を受けていたであろう片岡義男の小説に対して感じる美意識にも通じるものだったようにも思える。また、当時でいえば村上春樹はまだ長編2作目の「1973年のピンボール」が出版された翌年であり、表紙のデザインも含め、どこかこれらに通じるような雰囲気もあったように感じる。

「A LONG VACATION」について、生活感が感じられないというような批評を見かけたような気がするのだが、当時の風潮としてこういった生活感的なものを忌避するような傾向があったように思える。この生活感的なものというのは四畳半フォーク的なものと言い換えることもでき、そういえば四畳半フォークという言葉は松任谷由実の発明なのだと1984年の自著「ルージュの伝言」で言っていたような気がする。当時、日本は国全体としてどんどん経済的に豊かになっているという感覚があり(「ジャパン アズ ナンバーワン:アメリカへの教訓」の出版は1979年)、貧困は乗り超えられていくべき過去のものとされていた。庶民も含め、国民全員がこれからもっともっと豊かになっていって、後戻りするようなことは二度とないというような気分が蔓延していたようにも思える。

後にシティ・ポップと呼ばれたりもする大滝詠一や山下達郎、その前の年に一大ブームを巻き起こしたがわりとすぐに落ち着いたテクノブームのYMOやプラスチックス、いずれの音楽にも生活感は薄かった。それだからこそヒットしたのではないか、という気がしないでもない。テクノブームでいえば周りの友人達がYMOのレコードを持っていたりしたこともあり、私はプラスチックスを推していたのだが、もはやプラスチックになりたいと歌ったりもする生活感の希薄さで、それがたまらなくカッコいいと思っていた。

ここでいう生活感というのが四畳半フォーク的なもののことだとすると、それは貧乏ということでもあり、生活感が希薄なカッコよさというのは豊かさと結びついていたのだろう。当時、誰もが豊かだった訳ではまったくないが、豊かになれるのではないかという幻想が現実的なものとして共有されていたということはあったように思われ、それが糸井重里の「おいしい生活」的な価値観やコピーライターブームとも繋がっていたようにも思える。糸井重里の「牛がいて、人がいて」(1983年)には、事務所に貧乏な人をオブジェとして「設置」する小説が掲載されていたり、渡辺和博とタラコプロダクション「金魂巻」(1984年)では金持ちと貧乏人とを面白おかしく分類することがエンターテインメントとして成立し、ベストセラーになったりもした。

中学生ぐらいの頃に刷り込まれた価値観というのはその後も根強く引きずっていくというようなことがよく言われたりもするが、私の中学生時代というのはそのようなものであり、強く影響も受けてはいたので、その後もそれに準じるような感覚のものを好むようになっていった。90年代に流行し、後に「渋谷系」などと呼ばれるようになるフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴの感覚を好んでいたのも、そういった生活感の希薄さ的なものの延長線上だったような気がする(「渋谷系」音楽の魅力はもちろんそれに止まるものではないが、私が好きだったのは主にそのようなところだったのかもしれないということ)。それで、いまや大好きなサニーデイ・サービスが90年代に現れた時、ろくに聴いてもいないのになんとなく嫌な感じがして遠ざけた理由というのは、そこに生活感的なものを感じ取ったからかもしれない。

「Velvet Motel」の主人公が「今夜はソファーで寝てあげる」理由は、「一度は愛しあえたふたりが石のように黙る」というような状態で、「お前を口説く気さえ忘れて」いるからではあるのだが、これをただ単に女性と二人きりでいるのにセックスをしない状態として読み取り、そこに良さを感じていたというのもなんとなく当時の気分だな、という感覚もある。

そして、生活感が希薄なほぼフィクションの世界といえば、「A LONG VACATION」A面3曲目に収録された「カナリア諸島にて」であろう。「A LONG VACATION」のシグネチャー的な1曲といえば「君は天然色」よりはこの曲なのではないか、と感じることもある。よく分からないリゾート感覚は、旭川の中高生にとって完全なるフィクションではあるのだが、こういうの何か良いなと思わせる範囲には収まっていた。

「薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて 海に向いたテラスでペンだけ滑らす」と、それほど現実的に実現不可能だったり荒唐無稽という程でもないのだが、日常からはかけ離れているという絶妙な感じ。一瞬でその世界に時期込まれ、景色が切り換わるような感覚。

「明るい食堂をティーワゴン滑り出してく間 もう君のこと忘れてるよ 仕方ないこと」というのはフリッパーズ・ギター「HAIRCUT 100/バスルームで髪を切る100の方法」(1990年5月5日発売)の歌詞の一部だが、これを初めて聴いた時に感じた感覚は「カナリア諸島にて」の時のそれとひじょうによく似ている。ということには、実はずっと気付いていなかった。「カナリア諸島にて」には「アイスティー」、「HAIRCUT 100/バスルームで髪を切る100の方法」には「ティーワゴン」とそれぞれ「ティー」関連の単語、「カナリア諸島にて」には「滑らせ」、 「HAIRCUT 100/バスルームで髪を切る100の方法」 には滑り出してくと、それぞれ「滑る」関連の動詞が用いられている。さらに、「カナリア諸島にて」において薄く切ってアイスティーに浮かべるのも、「HAIRCUT 100/バスルームで髪を切る100の方法」において手袋を脱いで待っている「僕」が噛じるのも「オレンジ」である。

ところで、「生きることも爽やかに視えてくるから不思議だ」というような歌詞は、とても中高生が聴いて共感ができるようなものでもないのだが、大人への憧れも含め、何だか良いなと思えるようなものでもあったのである。パンク/ニュー・ウェイヴ的な価値観というのは「大人は判ってくれない」的な気分をベースとしているものだとは思うのだが、大人に対して憧れが持てる社会というのもまたとても健全なのではないかと思えたりもするのである。

この頃の日本の社会ではライトでポップな感覚が持てはやされ、根が明るいとか暗いとかそういうことが重要視されていたような気がする。いわゆる根が暗い人というのは私も含め、本来はひじょうに多いと思うのだが、当時はそう思われることに恐怖すら覚え、明るく見られるための努力をして、自分よりも暗いのではないかと思える人がいると、そちらに周囲の視線を集中させようとする、というようなしょうもないこともあった。そして、私が入学したばかりの高校のクラスにも暗いといわれている者がいて、彼はクラスメイトへの年賀状1枚1枚にそれぞれ違ったブルートレイン(寝台特急)のエンブレムを描いたりしていたのだが、ちょうどその頃、グループサウンズのザ・タイガースが再結成して、「色つきの女でいてくれよ」をヒットさせたりもしていた。それで、その暗いといわれていた彼が ザ・タイガースのメンバーであった岸部シローに似ているといってからかったりもしていた。「カナリア諸島にて」の「ぼくはぼくの岸辺で生きていくだけ…それだけ…」というところを聴くと、彼のことを思い出したりもする。ある年の春、何人かの同級生と生徒手帳に貼るための証明写真を撮りにいったのだが、彼は自分の写真を見ながら冴えない顔しているな、などと自虐的なことを呟き、その夜に自らの命を絶った。

「Pap-pi-doo-bi-doo-ba物語」は「ALONG VACATION」に収録された中でも特に軽快な曲で、この曲だけ松本隆ではなく大滝詠一が作詞もしている。大滝詠一と松本隆とは70年代にはっぴいえんどのメンバーとして共に活動していたが、バンドが解散してから作詞を依頼することはなかったという。しかし、このアルバムについては松本隆の作詞でいこうということを強く決めていたようだ。制作中、松本隆の妹の病状が悪化し、亡くなってしまう(「君は天然色」の「想い出はモノクローム」は妹のことだともいわれているようだ)ということになった。これによって詞が書けなくなってしまったという松本隆は、「A LONG VACATION」の作詞を降りることを自ら提案もするが、大滝詠一は待ち続けると言ったとされている。

この時点で私は大滝詠一のこれ以前の楽曲をはっぴいえんど時代を含めまったく知らなかったのだが、後にノベルティーソングの名手としての一面も持っていることを知る。「Pap-pi-doo-bi-doo-ba物語」は大滝詠一のそういった面での魅力が炸裂した、とても楽しい楽曲である。元々はシャネルズとEPOが歌った「大きいのが好き」というCMソングがベースとなっているらしい。この曲が実際にCMで流れることはなかったようなのだが、1982年10月1日にリリースされた「NIAGARA CM SPECIAL Vol.2」で聴くことができた。

歌詞の「一言言ったその日から 恋の花散ることもある」は、桂三枝と西川きよしが司会をしていた恋愛バラエティー番組「パンチDEデート」の、「ひと目会ったその日から 恋の花咲くこともある」のもじりだろうか。「I say yei yei yei yei yei yei」のところが西城秀樹「聖・少女」(1982年6月21日発売)の「Say it 少女」に影響をあたえているかもしれないと思ったりもしたのだが、おそらく気のせいである。

爽やかでポップな印象があるのだが、実際にはわりと暗くと重めなことが歌われてもいた「A LONG VACATION」だが、この曲や「FUNx4」のようなどこかコミカルでもあるような曲が程よいアクセントになっていたようにも思える。

そして、A面の最後に収録されているのが、「我が心のピンボール」である。この時代で「ピンボール」といえば、やはりこの前の年に出版された村上春樹「1973年のピンボール」を連想してしまう。1981年といえばインベーダーブームも落ち着いて久しいが、その後、テレビゲームがすっかり定着し、7月9日に稼働開始した「ドンキーコング」のキャラクターとして「スーパーマリオブラザーズ」のマリオがデビューを果たしていたりもする。そんな時代において、ピンボールというのはやはりレトロを感じさせるものであった。歌詞に出てくる「TILT」というのは、ピンボールでボールをコントロールするために台を揺らすというテクニックがあるが、揺らしすぎると取られてしまうもので、そのボールが没収されたりゲームそのものが終わらせられたりというペナルティーが課せられる。

B面の1曲目は「雨のウェンズデイ」である。「君は天然色」のシングルのカップリングは「カナリア諸島にて」で、その次にシングル・カットされたのが「恋するカレン」、そのカップリングが「雨のウェンズデイ」であった。途中からジャケットが変わり、「雨のウェンズデイ」がメインでカップリングが「恋するカレン」のバージョンがリリースされていたような気がする。

「壊れかけたワーゲンのボンネットに腰かけて」ということだが、スーパーカー時代も旭川市内でランボルギーニカウンタックやポルシェ911ターボといった車を見かけることはまったくなく、デパートの屋上のイベントで見られるのがやっとであった。そこへ行くと外国産の自動車でもフォルクスワーゲンは旭川でも見かけることが結構あって、わりと親しみを感じていた。そして、この曲では「ワーゲン」が「ワゲン」のように聴こえたりもする。これは曲とサウンド、特に間奏のギターがとても良くて、うっとりさせられたものである。

80年代のアイドルポップスあるあるとして、Tシャツ濡らしがちというのが思いついたのだが、具体的には小泉今日子「まっ赤な女の子」(1983年5月5日発売)の「ぬれたTシャツ ドッキリ」と堀ちえみ「稲妻パラダイス」(1984年4月21日発売)の「ぬれたTシャツ 空に抱きあげ」ぐらいしか思い出せなかった。そして、「雨のウェンズデイ」では「降る雨は菫色 Tシャツも濡れたまま」で、「時を止めて抱きあったまま」なのである。

2016年の秋にWHY@DOLL「菫アイオライト」を聴いてすぐに気に入ったのだが、タイトルの漢字が読めず、こんな漢字を読んだことがないと感じたのだが、「雨のウェンズデイ」には「降る雨は菫色」という歌詞があり、私はレコードを聴き、歌詞カードを見ながら何度となくこの曲を当時、歌っていたはずなのである。それで、あの大滝詠一特有の歌いまわしもすっかり身に付いて、カラオケでも再現できるようになった。「菫」の漢字については、おそらく忘れていただけなのではないかと思われる。

「ウェンズデイ」は水曜日であり、雨は水でもある訳ではあるが、やはりこれは「ウェンズデイ」以外の曜日ではありえなく、この辺りもちゃんと考えたことがいままで一度もなかったのだが、つくづく良くできているなと感じたりもするのであった。

B面の2曲目は「スピーチ・バルーン」で、この曲についてはタイトルが英語で漫画の吹き出しのことだというようなことはよくいわれていたような気がする。あとは、大滝詠一が「人生」という単語を歌うことに抵抗があったとか、そういうのも確かあったような気がする。

これは別れの場面を歌った曲だが、内容は重く暗い。当時はポップで爽やかな「A LONG VACATION」の1曲として、それほど深く考えずに聴いていたのだが、絶望的な断絶とでもいうのか、もうどうやってもなすすべがないとでもいうような状況について歌われているようにも思える。この曲では「想い出のブラス・バンド」というフレーズが、特に印象に残る。

「A LONG VACATION」にはオールディーズと呼ばれる音楽からの影響が強く感じられるのだが、このアルバムが当時の日本であれほどヒットした要因の一つとして、当時のオールディーズリバイバル的な気分があったのかどうかについてはそれほど確証が持てずにいた。なぜなら、当時、少なくとも私の周りにおいて、オールディーズリバイバル的な気分を支えている人達と「A LONG VACATION」を好んで聴いている人達とはそれほど一致していないように思われたからだ。

しかし、ここ数日間、当時のオールディーズリバイバル的な気分について、いろいろな方々の証言や考察を読みすすめていくにつれ、エロ詩吟における天津木村並みに「あると思います!」とはっきり言えるぐらいまでにはなったような気がする。

そして、「恋するカレン」などを聴くと、確かにそれはあったのだろうな、というような気分にもなる。思いを寄せている女性が他の男とスローなダンスを踊っているのを見て傷つくという内容は、オールディーズが流れまくってちょうどこの頃にヒットしていた青春映画「グローイング・アップ」シリーズのエンディング辺り、ボビー・ヴィントン「ミスター・ロンリー」が似合いそうなシチュエーションではある。

個人的な話になるのだが、高校1年の頃に少し良いなと思っている女子がいて、彼女が参加するというので、生徒会の健全な打ち上げのようなものに、自分自身はまったく関係がないのに参加したりした。そこで、彼女はある特定の男子ととても親密そうに話をしていて、周囲の反応から判断しても、おそらく特別な関係なのだろうな、ということは分かった。その夜、夕食を食べていても淋しい気持ちはおさまらず、自分の部屋に戻ると灯りを真っ暗にして、ヘッドフォンで「恋するカレンを」大音量で聴いた。「振られたぼくより哀しい そうさ哀しい女だね君は」という強がりがとても優しく心に響いた。

一転して、「FUNx4」はタイトルがあらわしているように、とても楽しい曲である。「散歩しない」と歌っているのは太田裕美とか月に吠えているのは五十嵐浩晃とか、そういう話もわりと盛り上がった。五十嵐浩晃は本当は杉真理の代わりにナイアガラ・トライアングルに抜擢されるはずだったのだが、「ペガサスの朝」がヒットしたため、無名のアーティストを発掘するというようなコンセプトに合わなくなった、という説を聞いたことがあるがどうだったのだろう。

この曲はビーチ・ボーイズ「ファン・ファン・ファン」に影響を受けていると思われ、実際に曲中に引用が含まれていたりもする。「Fun fun fun ’til her daddy takes the T-bird away」というのは、彼女のパパがTバード、つまりフォードのサンダーバードという車を取り上げるまではとても楽しいというような内容で、確か村上春樹のエッセイか何かでも取り上げられていたような気がする。

当時、土曜の深夜にラジオ関東(1981年10月1日以降はアール・エフ・ラジオ日本)でビルボードの最新チャートを紹介したりする「全米トップ40」という番組があった。コーナーの一つに「坂井隆夫のジョークボックス」というのがあり、つまり「タモリ倶楽部」の空耳アワーのように、英語の歌詞が実際には違うのだが日本語でこのように歌っているようにも聴こえる、というようなネタをリスナーから募集し、紹介するという内容である。裏で放送されていた「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」にもある時期から「この歌はこんなふうに聞こえる」というほとんど同じ内容のコーナーができたが、こちらはややアダルト向けの内容のネタが多かった。

「坂井隆夫のジョークボックス」でビーチ・ボーイズ「ファン・ファン・ファン」のまさに「FUNx4」に引用されたところが取り上げられたことがあるのだが、「 Fun fun fun ’til her daddy takes the T-bird 」というところが「パン、パン、パンツが濡れててチビる」と歌っているように聴こえる、というようなものであった。確かにそう聴こえなくもないのだが、「濡れててチビる」というのにはやや違和感があって、濡れていてチビるのではなく、チビった結果として濡れているのではないか、と当時思ったりしていた。

また、クイーン「キラー・クイーン」で「Gunpowder, gelatine」、つまり「火薬、ゼラチン」と歌っているところが「がんばれタブチ」と歌っているように聴こえる、というのもあった。「がんばれタブチ」とは西武ライオンズの田淵幸一選手をモデルとした人気コミック及びアニメーション映画「がんばれ!!タブチくん!!」のことだと思われるのだが、「君が天然色」の間奏は大滝詠一が「がんばれ!!タブチくん!!」のエンディングテーマ「がんばれば愛」のために書いたが、結局は使わなかったところがベースになっているという。

松田聖子のアルバム「風立ちぬ」に収録されている「いちご畑でつかまえて」はこの「FUNx4」と対になっているのだが、それだけではなく、松田聖子のくしゃみがひじょうに可愛らしいので必聴だということはできる。サニーデイ・サービスに「苺畑でつかまえて」という曲があるのだが、松田聖子のこの曲とはおそらく関係がないと思われる。この曲のミュージックビデオには私が好きなアイドルグループ、NegiccoのKaedeが参加していて、それだけのために視聴したのだが曲そのものが気に入ってしまい、それをきっかけにしょうもない偏見によりずっと聴かず嫌いしていたサニーデイ・サービスの音楽を聴くようになったという経緯がある。

「FUNx4」の終わりではいつの間にかそこにいた観客達が拍手をして、これが本編の終わりであることを伝える。「君は天然色」のイントロの前のチューニングからはじまる架空のコンサートというコンセプトに則っている。過去に何度となく再発された「A LONG VACATION」のエディションの中には実際にこの曲で終わっているものもあるのだという。聴衆はアンコールを求め、それに応えたのが「A LONG VACATION」のB面5曲目、最後に収録された「さらばシベリア鉄道」ということになる。

夏のイメージが強い「A LONG VACATION」にあって、この曲だけは冬である。1983年6月8日にリリースされた山下達郎のアルバム「MELODIES」の最後に収録されたのが「クリスマス・イブ」であることがこれと関係があるかどうかは定かではない。この曲は女性言葉の歌詞を歌うことに大滝詠一が違和感を覚えたこともあり、「A LONG VACATION」よりも4ヶ月早い1980年10月21日に太田裕美によるバージョンがリリースされている。「A LONG VACATION」に収録されているのは、大滝詠一によるセルフカバーバージョンだともいうことができ、これはナイアガラ・トライアングル「A面で恋をして」のシングルB面にも収録されている。

ということで、「A LONG VACATION」を中学生の頃に発売された流行りのアルバムとして消費していたに過ぎない私だが、一時期、まったく聴いていなかったこともある。1982年にはインスト集とかCMスペシャルとか大滝詠一関連のレコードを他にも買っていたが、1984年にはすでに興味や関心の中心が他に移っていて、「EACH TIME」は買ってすらいない(数年後にちゃんと聴いたし、やはり気に入ってはいるのだが)。

1990年代にはおそらく聴く気にすらなっていないのだが、00年代に入ってなんとなく80’sブーム的なものだとか自分自身の年齢的にも中高生の頃に聴いていたものを聴き直すフェイズに入ったりしてCDで買い直し、懐かしんだりやっぱり良いなと思い直したりはしていた。

その後、「A LONG VACATION」は日本のポップ・ミュージック史に燦然と輝く名盤としての評価が定着していて、今回、発売40周年を記念してのストリーミング配信解禁も話題になっている。この文章そのものがそれをきっかけとしてみんなで「A LONG VACATION」についての文章を書き合ってみよう、という素敵な提案に乗っかったものではある。正直言って、「A LONG VACATION」について、中学生の頃に発売された流行りのアルバムとして以外の聴き方をすることが私には難しく、実のところそうしたいとも思ってはいない。いま聴いてもとても良いし確実に好きではあるのだが、岡村靖幸「靖幸」やフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」よりも好きだったり優れているといえるかというと、実はそうでもなかったりはする。まあそれは人それぞれの趣味嗜好ということなのでもあり、絶対的信奉というようなスタンスは当時の日本のポップ・ミュージック界において、このアルバムが担っていたラジカルでエポックメイキングな価値を低めてしまうのではないか、というような気もする。

とはいえ、そのような感覚というのはある意味、リアルタイマーならではの特権ということもできるのかもしれないが、それを殊更マウンティングする気ももちろんさらさらない訳であり、当時はこのような需要のされ方をされてもいましたよ、という昔話レベルであり、このアルバムのこれからの価値はこれからの人達が決めていくものなのだろう。必要以上に神格化したり逆張りで敵対視したりする必要もなくて、それぞれの価値観で気に入ったりピンと来なかったりすれば良いのではないかと思うし、今回、ストリーミング配信の解禁によってその可能性が高まったのはとても良いことなのではないかと個人的には考えるのである。

「がんばれ!!タブチくん!!」のエンディングテーマを大滝詠一が作曲していたことなどについて

「がんばれ!!タブチくん!!」という漫画を最初に目にしたのはどこでだったか、よく覚えていない。いしいひさいちが「漫画アクション」に連載していたプロ野球をテーマにしたギャグマンガで、実在のプロ野球選手達が実名で登場する。しかも、作中においてひじょうに失礼な扱われ方をされている場合も少なくはなく、今日ならば肖像権などの問題でなかなか難しいのではないか、と思わされたりもする。

プロ野球をテレビで見ていたのは私の家では子供の頃から父だけだったのだが、少しずつ興味が出てきて、1976年ぐらいから私も見るようになっていた。この前の年から読売ジャイアンツの監督が長嶋茂雄になっていたのだが、一年目は球団史上初の最下位で、一方、広島東洋カープが球団史上初の優勝で赤ヘル旋風が巻き起こっていた。

1978年に王貞治が通算756号ホームランを放ち、世界新記録を樹立した件はスポーツ界を超えてひじょうに盛り上がっていた印象がある。当時、北海道のプロ野球ファンには読売ジャイアンツのファンがひじょうに多かったのだが、私もなんとなくその一人であった。当時の写真を見ると、読売ジャイアンツの野球帽をかぶり、球団ロゴが入ったウィンドブレーカーを着ているものがひじょうに多い。

柴田勲、高田繁、張本勲、王貞治、柳田真宏、土井正三、河埜和正、吉田孝司というのが、当時の読売ジャイアンツのよくあるスターティングメンバーであった。それ以前は5番に末次利光が入っていて、個人的に好きだったのだが、練習中に柳田真宏の打球が目に当たってしまい、その後遺症が原因で引退している。

当時、流行歌やアニメ主題歌、童謡などをオリジナルではないよく知らない歌手が歌っているカセットテープが安価で売られていて、家にも何本かあった。私はそういったシリーズのうち、プロ野球の応援歌を集めたものを買った。「GO!GO!掛布」は阪神タイガースの若手内野手、掛布雅之のことを歌った曲で、私は遠藤良春が歌ったオリジナルのレコードを持っていた。そして、そのカセットで次に収録されていたのが、「行け柳田」である。女性歌手が歌っているのだが、プロ野球の試合がはじまるまえのワクワク感を歌っている一番はまあ良いとして、二番の歌詞に衝撃を受けた。

「一番柴田 二番に高田 三番張本 四番王 五番柳田 六番土井 七番河埜に 八番吉田」

スターティングオーダーをただ読んでいるだけである。これがとても独特なメロディーに乗っているのだ。このカセットで歌っていたのはよく知らない女性歌手だが、オリジナルが矢野顕子だったことを後に知った。作詞は読売ジャイアンツの大ファンで知られる糸井重里あたりかと思ったのだが、矢野顕子自身によるものであった。

それはそうとして、1976年以降、読売ジャイアンツはしっかり強くなり、応援しがいもあったのだが、1978年のシーズンオフにいわゆる江川問題というやつが発生する。江川卓の読売ジャイアンツ入団をめぐるすったもんだであり、いろいろややこしいので説明は省くのだが、結果的に読売ジャイアンツでエース級の活躍をしていた小林繁が阪神タイガースに移籍することになった。読売ジャイアンツの選手がシーズンオフに旭川までやって来てファッションプラザオクノの地下でサイン会をやったことがあり、その時、小林繁に握手をしてもらった。元々、好きな選手ではあったのだが、これでなんとなく読売ジャイアンツに対し良からぬ感情が芽生えはじめ、阪神タイガースを応援するようにもなる。

まったくの余談だが私は有名人のサイン会などというものにあまり行く習慣がなく、この1978年の旭川での読売ジャイアンツの選手達以降、次に行ったサイン会がこの38年後、2016年のタワーレコード錦糸町店で、新潟を拠点とするアイドルグループ、Negiccoであった。マネージャーであり事務所社長の熊倉維仁氏はファンからも熊さんと呼ばれ親しまれているのだが、その時には整理券の回収も自ら行い、順番を待っているファンとも気さくに話していた。私がサイン会に参加すること自体が読売ジャイアンツの小林繁ら以来だということを話すと、熊さんは小林繁と誕生日がまったく同じだという話になり、出会ったのは偶然の運命、無駄なことなんてないね(「さよならMusic」)という気分になった。

そうして訪れた1979年、私は旭川の書店で「がんばれ!!タブチくん!!」のコミックに出会うわけだが、それは第2巻であり、表紙でタブチくんこと田淵幸一選手は西武ライオンズのユニフォームを着ていた。福岡の平和台球場をフランチャイズとしていたクラウンライターライオンズが西武ライオンズに変わり、埼玉の所沢に移転した一年目だった。阪神タイガースとクラウンライターライオンズの間にトレードが発生し、田淵幸一は西武ライオンズに移籍していた。この時、交換トレードによって何人かの選手が移籍をしているのだが、クラウンライターズから阪神タイガースに移籍した選手の一人に、後に監督も務める真弓明信がいた。

「がんばれ!!タブチくん!!」の第2巻を、当時の実家の近所にあった太陽堂書店という小さな書店で買ったのだが、これは面白くて何度も読んでいた。それから第1巻も見つけたのだが、表紙では阪神タイガースのユニフォームを着たタブチくんが涙を流していて、「売約済」と書かれた札が付けられていた。これは酷い。第3巻もその年のうちに出たのだが、当時、旭川の書店に並ぶのは東京に比べてわりと遅かった印象があり、何かの音楽番組の中継で「C調言葉に御用心」を歌う前のサザンオールスターズの桑田佳祐がこの第3巻をカメラに見せびらかしていたことをなぜか覚えていたりもする。

それで、この「がんばれ!!タブチくん!!」は人気がありすぎて、ついにアニメーション映画にもなってしまうのだった。「がんばれ!!タブチくん!!」のコミックは4コマ漫画で、短い話ばかりなのだが、これを繋げてアニメにしている訳である。しかし、やはりこれもまた短いパートがいくつか連なる構成になっていて、それぞれに「1回裏」「2回表」などと共にサブタイトルが付いていた。そして、途中から見ても楽しめる「マルチラウンド・アニメーション」と銘打たれてもいた。実質的には短篇集のようなものだったのだが。

アニメ映画「がんばれ!!タブチくん!!」は1979年11月10日公開、旭川の映画館でもやったので、私ももちろん見に行ったのだった。この時、ホラー映画の「ファンタズム」と二本立てになっていて、無茶苦茶なプログラムだなとは思ったのだが、お金がもったいなかったので「ファンタズム」の方もちゃんと見た。こういうものなのだとずっと思っていたのだが、東京ではけしてこのような公開のされ方はされていなかったらしく、生まれも育ちも東京のライター、初見健一さんにものすごく驚かれた。

この年の秋、沢田研二を主演とする荒唐無稽なアクション映画、「太陽を盗んだ男」が公開され、現在も日本映画史に残るカルトムービーとして高く評価されている。配給は「がんばれ!!タブチくん!!」と同じ、東宝である。これ以外のどこに共通点があるかというと特には無いとも思える訳だが、当時、「がんばれ!!タブチくん!!」のアニメ映画は「太陽を盗んだ男」の製作費補填のために、手っ取り早く稼げそうなコンテンツということで制作されたのだという話もあるようだ。

年が明けると80年代であり、沢田研二は派手な衣装で落下傘を背負い、東京は「TOKIO」でスーパーシティだと歌っていた。作詞はコピーライターの糸井重里である。同じく東京のことを「TOKIO」と歌っていた曲といえば、社会現象的ともいえるテクノブームを起こしつつあったYMOことイエロー・マジック・オーケストラの「テクノポリス」である。細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一というメンバーの名前を、間もなくすぐに覚えるのだが、このうち細野晴臣がかつてはっぴいえんどというバンドをやっていたという話などはこの時点ではまったく知らなかった。

「がんばれ!!タブチくん!!」には引き続き人気があり、5月3日にはアニメ映画の第2弾、「がんばれ!!タブチくん!! 第2弾 激闘ペナントレース」が公開される。オープニングテーマ曲は前作に続き、クレージー・パーティーの「がんばれ!!タブチくん!!」である。岡田富美子による歌詞は、「噂に聞いたパンチ力 どうしちゃったの」「当たりゃでかいが バットは宙を斬る」など、なかなか辛辣である。そして、これを歌っているクレージー・パーティーの正体とは、後にスターダストレビューでデビューする根本要である。

そして、エンディングテーマ曲もやはりクレージー・パーティーが歌っているのだが、前作の「WAOH!」から「がんばれば愛」という新曲に替わっている。この曲を作曲しているのが大滝詠一で、曲調は「A LONG VACATION」の1曲目に収録され、シングルでもリリースされた「君は天然色」にひじょうに似ている。というか、元々は「がんばれば愛」に使うつもりで作られたのだという。

「A LONG VACATION」がリリースされたのはこれから10ヶ月以上も先の1981年3月21日だが、元々は1980年の大滝詠一の誕生日、7月28日に発売される予定だったのだという。作詞を依頼していた松本隆が妹の病気、そして死によって詞を書けなくなり、降板を申し入れるが、大滝詠一は待ち続けると伝えたといわれている。

まだ松本隆の詞を歌っていなかった松田聖子が「青い珊瑚礁」をヒットさせたこの年の夏、旭川ではイトーヨーカドーが開店し、私はオープンセールで「USA」とプリントされたTシャツを買ってもらった。8月に父に東京に連れて行ってもらうことになっていて、その時にはこのTシャツも持って行ったのではないかと思う。後楽園球場で日本ハムファイターズと西武ライオンズの試合を観戦し、本物のタブチくんを初めて肉眼で見た。試合前にはデビューして数ヶ月目の柏原よしえが、デビュー曲の「NO.1」を歌った。当時、日本ハムファイターズには柏原純一選手がいて、名字が同じなので応援するというようなことを言っていたような気がする。

その年の12月13日にはアニメ映画「がんばれ!!タブチくん!! 初笑い第3弾 あゝツッパリ人生」が公開され、エンディングテーマは前作に続き「がんばれば愛」であった。「がんばれ!!タブチくん!!」の映画はこれが最後となった。

この約3ヶ月後に、大滝詠一の「A LONG VACATION」は発売されるのだが、それについては次の機会に書いていきたいと思う。

1981年前後のオールディーズやシティ・ポップについての個人的な記憶

「銀幕の中 泣き顔の ジェームス・ディーンのように」

甲斐バンド「HERO(ヒーローになる時、それは今)」(1978年12月20日発売)には、このような歌詞があった。この曲はセイコーの時計のCMソングになっていて、その映像は1979年の元旦になったと同時に民放各局で放送されたのだという。当時、小学生だった私はその瞬間を見ていたような気もするし、見ていなかったような気もする。いずれにせよ、このCMはその後も頻繁に放送されていて、私にはとてもカッコよく思えたのだった。

この時点で甲斐バンドはそこそこのキャリアを重ねていて、1975年には「裏切りの街角」というヒット曲もあった。しかし、その頃はまだ小学校低学年でテレビで歌われている流行歌ぐらいしか知らなかったので、甲斐バンドというのは新しく現れたニューミュージックのバンドだと思っていた。

先日、スピッツの草野マサムネ(1967年生まれ)がやっている「SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記」というラジオ番組で、雑誌「昭和40年男」2020年11月号の特集「日本ロック元年」を取り上げていたようだ。この番組は私の妻が毎週、笑いながら聴いている素晴らしい内容だということなのだが、私自身はまだ聴いたことがない。ところで、「日本ロック元年」という特集なのだが、日本のロック元年を1978年とする、ある意味、かなりの暴論だといえなくもないコンセプトである。いわゆる「はっぴいえんど史観」どころの話ではない。

しかし、この雑誌、誌名からも分かるように、昭和40(1965)年生まれの男性をターゲットとしている。そして、それとほぼ同世代でもある私からしてみると、これはこれで違和感はないかな、というような気もする。もちろん日本にロックはこれより何年、何十年も前からあったのだろうが、たとえば昭和40年生まれの男性が生まれてはじめてロックを意識したのがこの年、ぐらいの感じなのだろう。つまり、世良公則&ツイストのようなロックバンドが「ザ・ベストテン」のようなお茶の間の人気テレビ番組に出演し、ごく一般的な家庭の小学生までをも熱中させたことのインパクトである。しかし、当時、このようなロックバンドの音楽も、「ザ・ベストテン」にランクインしているようなものはニューミュージックといわれていたような気がする。

歌謡ポップスと演歌以外の日本のポップ・ミュージックはすべてニューミュージックと呼ばれていたような印象があり、後にシティ・ポップと呼ばれたり日本のロックと呼ばれるようなものもこれに含まれていたような気がする。世良公則、原田真二、Charの3人はニューミュージック御三家と呼ばれていたような印象があるのだが、ロック御三家と呼ばれていたとする説もあり、この辺りはなんとなくぼんやりとしている。

そういった訳で、当時、甲斐バンドもニューミュージックと見なされていたのではないかと思うのだが、とにかくそのセイコーのCMはカッコよくて、私も「HERO(ヒーローになる時、それは今」のレコードは買ったし、オリコン週間シングルランキングで1位にもなった。

そして、注目すべきは歌詞に登場するジェームス・ディーンである。1950年代に活躍するも24歳の若さでこの世を去った、伝説の俳優である。代表作に「理由なき反抗」「エデンの東」などがある。ジェームス・ディーンが交通事故で亡くなったのは1955年9月30日ということなのだが、70年代の日本においてもポップ・アイコンとしての人気はかなりのものだったと思われる。最近ではあまり見かけなくなったような気もするポスター屋のような店では、常にジェームス・ディーンのポスターが良いところに貼られていたような気がするし、ジェームス・ディーンの写真を使った鏡やゴミ箱といったグッズにも人気があったように思える。

あの大人は判ってくれないというような、苦悩をにじませた切なげな表情が若者の心に強い何かを訴えていたのだろうか。T.C.R.横浜銀蠅R.S.のJohnnyがソロでヒットさせたシングルのタイトルも、「ジェームス・ディーンのように」(1981年11月8日発売)であった。

1981年3月21日にリリースされ、この年のオリコン年間アルバムランキングで第2位の大ヒットを記録、日本のポップ・ミュージック史に残る名盤とされる大滝詠一「A LONG VACATION」だが、このある意味、マニアックともいえる作品が当時、これほどまでにヒットした要因とは何だったのだろうか、というようなそれほど深刻でもない興味や関心を浅めに掘り下げている過程で、当時のオールディーズとシティ・ポップが同時に受け入れられていたような空気感にフィットしたのかもしれない、というような仮説めいたものを立ててみたのだが、自分自身でもほとんど自信はなかった。というのも、当時、少なくとも旭川の中学校ではオールディーズを聴いている層とシティ・ポップ(と後に呼ばれる音楽)を聴いている層とは異なっているように思えたし、「A LONG VACATION」がAORの名曲としても知られるJ.D.サウザー「ユア・オンリー・ロンリー」に着想を得ていたとしても、たとえば田中康夫「なんとなく、クリスタル」の登場人物達が「A LONG VACATION」を一年後に聴いているとは思えなかったからである。

しかし、ここ数日間、いろいろな方々の文章を読んだりしているうちに、あのオールディーズリバイバル的なムードはやはり「A LONG VACATION」のヒットと関係があったのではないか、というような気分になっていたりもする。そう考えて思い返してみると、当時の私の個人的な記憶においても、確かにそうかもしれないと思えるようなことがいろいろとあった。

オールディーズと呼ばれる音楽のことをいつ、どのようにして良いと思ったかというと、おそらくテレビで放送されていた「グローイング・アップ/恋のチューインガム」のCMがきっかけだったのではないかと思う。この映画が日本で公開されたのは1981年の夏で、CMではダイアモンズの「リトル・ダーリン」が流れていたのではないかと思う。

「グローイング・アップ」というのは全編でオールディーズの名曲が流れまくる青春映画で、シリーズ化もされていた。ジョージ・ルーカスが監督した1973年の映画「アメリカン・グラフィティ」から影響を受けていると思われるのだが、「グローイング・アップ」はイスラエル映画で、最初に公開されたのは1978年だったのだという。当時の私には「アメリカン・グラフィティ」と「グローイング・アップ」の区別があまりついていなかったような気もする。

「グローイング・アップ」のシリーズ第3作「恋のチューインガム」が公開されるタイミングでフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」ではシリーズ前作にあたる「グローイング・アップ2/ゴーイング・ステディ」が放送されていた。声優に当時、人気絶頂の田原俊彦などが起用されていた。これは当時、リアルタイムで観ていたような気がする。放送日は1981年8月8日だったらしく、「A LONG VACATION」がリリースされてから最初の夏のことであった。

この年の7月にFM情報誌「FM STATION」が創刊されている。FM情報誌というのは一体何なのかというと、いろいろな音楽情報とFM局の番組表が2週間分掲載されている雑誌で、当時は「FMレコパル」「週刊FM」「FM fan」に加え、新創刊の「FM STATION」があった。なぜ、FM情報誌にそれほど需要があったかというと、当時のFMラジオというのは音楽ファンにとって貴重な情報源であったのと同時に、ライブラリーの素でもあったからである。当時の音楽ファンにとって、FM放送というのは聴くだけではなく、録音するものでもあった。FM放送はまず音質が良いのと、曲も基本的にノーカット、フルコーラスでかかった。現在のようにナビゲーター(当時はパーソナリティーとかDJ)のトークや曲紹介が曲のイントロや途中に入るようなスタイルが主流になったのは、80年代の後半あたりからだったような気もするのだが、記憶が定かではない。

FM雑誌に掲載された番組表にはかかる曲やその時間までが記録され、読者は録音したい番組や曲に蛍光マーカーなどで印を付けて、熱心な者などは時間を計算し、カセットテープになるべく限度いっぱいまで入るように工夫していたりもした。FM雑誌にはそれぞれ特徴があり、オーディオ情報が充実しているもの、ビルボードのチャートが掲載されているものなど、いろいろあった。

私は新創刊された「FM STATION」派だったのだが、理由は軽くて薄い、つまり軽薄だったからである。それは、80年代的だったと言い換えることができるかもしれない。物理的に実際に軽くて薄くて、その上、価格まで少し安かったのだが、表紙が鈴木英人のイラストでシティ・ポップ的だったのが、とても良かった。鈴木英人といえば山下達郎「FOR YOU」(1982年1月21日発売)のジャケットのイラストを描いた人としても知られる。創刊号の表紙がシーナ・イーストンで、確か1981年の初夏、修学旅行から帰ってきて旭川駅前で解散になった後、私はミュージックショップ国原かどこかでシーナ・イーストン「9 to 5(モーニング・トレイン)」のシングルを買ったのであった。その時、友人と最近、大滝詠一という人のレコードが気になっているが知っているか、というような会話をしたことを覚えている。大滝詠一の「君は天然色」はラジオでよくかかっていて、私はそれまでこのアーティストのことをまったく知らなかったのだが、なんとなく爽やかで良い曲だなと感じていた。はっぴいえんどのことは後に、大滝詠一やYMOの細野晴臣や松田聖子の歌詞などを書いている松本隆などが一緒にやっていた伝説のバンドとして知った。

この「FM STATION」の創刊号では「栄光のオールディーズ大特集」というのが組まれていたらしく、ここからも当時、オールディーズが注目されていたことが分かるというものである。FM雑誌の中でも特にポップな印象が強い「FM STATION」というのが、またポイントのようにも感じられる。

ところで、東京の私立などはまた違っていたのかもしれないが、「A LONG VACATION」がリリースされた頃の中学校といえば校内暴力が深刻化していて、それは私が通っていた旭川の公立中学校においても例外ではなかった。暴走族の写真集がベストセラーになるなど、世の中は不良、ツッパリブームである。T.C.R.横浜銀蠅R.S.が「ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校篇)」でブレイクしたり、猫にツッパリ少年少女のコスプレをさせてヒットした写真集「なめんなよ」なども1981年の発売である。

当時、毎年の元旦には「オールスターかくし芸大会」というのが放送されていてひじょうに人気があったのだが、1982年には田原俊彦や岩崎良美などが出演した「グローイング・アップ」のパロディー的な青春ドラマも放送されていた。「Lonely・マイ・Love」というタイトルがどうやら付いていたらしく、出演はたのきんトリオ、岩崎良美、香坂みゆき、浜田朱里、川崎麻世、中島はるみ、中原理恵、犬塚弘、コロッケ、ツービート、シャネルズ、ハナ肇だったということである。田原俊彦が岩崎良美に「酔っぱらいは嫌いよ」などと言われて殴られていたのと、ラストシーンでボビー・ヴィントンの「ミスター・ロンリー」が流れていたことはなんとなく覚えているのだが、それ以外が思い出せない。しかし、ハナ肇が学校の銅像を演じていたであろうことはなんとなく想像がつく(もしかすると違っていたのかもしれないが)。

これはあくまでパロディーではあったのだが、なんとなくとても良いと感じてしまい、お年玉の残りで後日、「グローイング・アップ」のサウンドトラック盤を買った。ローリング・ストーンズ「刺青の男」と同時にである。80年代の中学生なので反抗期であり、父との仲はそれほど良くなかったのだが、父のレコードコレクションの中にジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」があることは知っていた。子供の頃に面白がってかけて、「ビーバッパルーラー♪」などと真似て歌っていた。私が買った「グローイング・アップ」のサウンドトラックにはこの曲のジェリー・リー・ルイスによるバージョンが収録されていたのだが、父にわざと聴こえるようにこの曲をかけて、気づいてもらおうとするなどもしていた。

1982年の春に高校に入学すると、学力などによるセグメントが行われたことなどもあり、全体的に気分はライトでポップになっていたのだが、やはり現在でいうところのスクールカースト的には不良やツッパリのテイストをマイルド化させたようなタイプの人達が上位にはいるのであった。矢沢永吉の「YES MY LOVE」と細川たかしの「北酒場」が流行っていたが、私は田原俊彦のものまねなどを昼休みにやっていて、他のクラスからもギャラリーが集まったり、見ず知らずの田原俊彦ファンの女子から面と向かって不快感を表明されたりもしていた。私も他のクラスの本人とは似ても似つかぬ女子が松本伊代に似ているなどと言われて持て囃されていることにムカついていたので、その気持ちはよく分かった。

当時は大滝詠一・佐野元春・杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」、山下達郎「FOR YOU」、佐野元春「SOMEDAY」などを好んで聴いていて、大滝詠一「A LONG VACATION」もリリースから1年以上経ってやっと買っていたのだが、高校に入学すると同じような趣味で話し合える人も結構いて、なかなか楽しかった。しかし、彼らの多くが田原俊彦などのアイドルポップを軽視している傾向にあることについては、内心よく思っていなかった。不良やツッパリ的な文化圏にいたと思える男子の一人で、ジェームス・ディーン的な孤独をたたえた瞳をしているのだが、後にネタキャラとしてブレイクを果たす人物がいた。彼は不良やツッパリに人気の原宿のブティック、クリームソーダの店員によって組まれたというロカビリーバンド、ブラック・キャッツの音楽を好んで聴いていた。

高校野球の応援で旭川スタルヒン球場に行った時、彼が本当は禁止されていたのだが、ヘッドフォンステレオで音楽を聴いていたので、何を聴いているのかと尋ねてみたところ、「ナイアガラ・トライアングルVol.2」だったのが意外だった。杉真理「Nobody」が特に気に入っていると言っていた。

松本伊代がとにかく大好きで、高校受験の当日の朝には願をかける意味で「ラブ・ミー・テンダー」を何度も繰り返し聴いてから試験に臨んだぐらいなのだが、「花の82年組」といわれるぐらいで、その年には魅力的な女性アイドルがたくさんデビューしたので、やはり目移りはしてしまうものである。それで、小泉今日子でも堀ちえみでも石川秀美でも中森明菜でもなく、早見優であった。松本伊代に早見優ということで、当時のルックスの好みが完全に分かりやすい訳ではあるが、早見優のどこが良かったかというと、ハワイ育ちで英語の発音がとても良いところは個人的にひじょうに大きかったような気がする。あとはちょっと陰りがあったところである。勢いでファンクラブにも入ってしまうのだが、確かファンクラブの会報でだったような気がするのだが、ハワイ時代にはビーチ・ボーイズとカラパナが好きでよく聴いていた、というようなことをいっていた。

NHK-FMで「サーフィンU.S.A.」を聴いてわりと気に入っていたこともあって、ミュージックショップ国原でビーチ・ボーイズのベスト・アルバムを買った。「サマー・プレゼント」というタイトルで、日本独自で編集されたものらしい。2枚組でヒット曲がたくさん入っていたので、とても良かった。しかし、当時は単純明快な初期の曲の方が好きで、いまやビーチ・ボーイズの曲の中で最も好きな「神のみぞ知る」などはなんとなく地味で暗いのではないかと思い、その良さがあまり分かっていなかった。しかし、このベスト・アルバムは好きで聴きまくった。それから、山下達郎のグレイテスト・ヒッツも発売されたのでミュージック国原で買い、「RIDE ON TIME」以降の曲はもちろん、それ以前もカッコよくて最高だなと感じたのであった。

さて、高校の昼休みで、机はまるで掃除の時間のように後ろに寄せられている。大きなラジカセからオールディーズの曲が流れると、バスケット部の男子が激しくツイストを踊り出し、それを取り巻き達が囃し立てた。曲はダニー&ザ・ジュニアーズの「アット・ザ・ホップ」といって、「踊りにいこうよ」という邦題もあったようだ。とにかく彼らにとってこれは神曲といえるようなものらしく、ひじょうに盛り上がっていたのであった。

夏休みに留萌の黄金岬にキャンプに行こうという話が持ち上がり、もちろん私はノリノリであった。夏で海で女子も来るのだから、もちろんこれが青春というようなものである。当初は参加が予定されている人達が結構いたのだが、そのうちどんどん離脱者が出て、特に男子のカースト下位の「うる星やつら」や「ナイアガラ・トライアングルVol.2」の話をしていた人達まで来ないということになった。そのうち、とある父兄から学校にリークが入り、中止の憂き目を見かねない状況になった。しかし、そこで担任の女性国語教師が私が引率するのでやらせてあげてください的な流れに持っていったらしく、こういう大人ってカッコいいよね、というような気分になった。

ちなみにこの女性教師だが、田中康夫「なんとなく、クリスタル」を文学と認めるかどうかについての15歳男子のしょうもない議論にちゃんと付き合ってくれたり、国語表現なる授業のコンセプトそのものに対する異議申し立てとして、好きな文章の感想を書くという課題に対し、自分自身が書いたバンドの歌詞を自分で論評するというイタいことをやっていた私のような者にまでちゃんと接してくれたので素晴らしかった。当時は反抗ばかりしていたけれども。

引率と言いながらも実際に本当に引率をした訳ではなく、基本的には行きも帰りも現地でも生徒だけで盛り上がっていて、教師は途中で車で見に来て帰っただけである。逆にいうとそれだけ我々のことを信用して、リスクを取っていたともいえる訳であり、やはり素晴らしかったと思う訳である。

それはそうとして、このキャンプには女子はいろいろなタイプの人達が参加したものの、男子は不良、ヤンキー文化からマイルドに移行したタイプのスクールカースト上位者ばかりであり、それ以外のクラスタから参加したのは私のみといっても過言ではないような状態であった。それでも、夏で海で女子も来るとなれば青春だろう、青春しなくちゃまずいだろう、という呪縛からは逃れることができず、参加することに迷いは1ミリも無かった。キャンプファイヤー時に披露するため、田原俊彦「原宿キッス」の振り付けも完全にマスターした。しかし、これは私の田原俊彦の振りマネという芸をのものが完全にオワコン化していた上に、面白さよりもクオリティーに重きを置いたため、完全に失敗していた。感心はされていたが、誰も笑っていなかったのだから。

そして、他の高校の男子の集団とケンカになった、一瞬にして向うの男子とこっちの男子が1対1で取っ組み合いになり、女子は「やめてー!」と絶叫する、これがリアルに夜の浜辺で行われているという、まさにこれが青春である。それで、私はといえば他校の男子が誰も来なかったのと、基本的に女子と一緒になって後方にいたので完全に相手にされていなかった。向こうもこいつは見た目からして何か違うな、と判断したのだろう。

それでも、カレーを作る時の炊事の場面では、クラスでは話しかけることすらできなかった一軍のキラキラした女子がわりと気軽に話してくれて、もしかすると虫ケラ以下の取るに足らない存在だと思われているに違いないというのは、単純に私の被害妄想であり思い過ごしなのかもしれない、と感じたりもした。

とはいえ、このキャンプにおいて私が少なからず貢献したところとしては、ビーチ・ボーイズと山下達郎のカセットを持ってきたことというのが挙げられる。キャンプファイヤーを囲みながら、いつもながらに冴えなくてしょうもないなと感じながらも、これが青春であり来ないよりも来た方が絶対に良かったことは間違いないのだが、吹奏楽部で女子にモテモテだったとある男子が私が持ってきたビーチ・ボーイズのカセットを誉めてくれて、それに続いて他の男子も「良いよな」「トリコになるな」などと言ってくれて、それがとてもうれしかったことを覚えている。

学校の昼休みに「アット・ザ・ホップ」に合わせて激しくツイストを踊っていた男子は普段はとても寡黙なタイプだったのだが、クラスに付き合うか付き合わないかぐらいの絶妙な感じの女子がいて、彼女もこのキャンプには来ていた。そして、この二人が気がつくとキャンプファイアーを囲む一団にいなかったものだから、もちろん静かにざわつくというものである。ラジカセからは私が持ってきた、今度は山下達郎の方のカセットが流れていた。

やがて、暗闇からゆっくりと二人の姿が現れ、彼女は女子達のテントに入っていった。キャンプファイヤーを囲んでいるのは、もう男子だけになっていた。彼は上半身裸で、うつ伏せに寝そべっている。他の男子からはどこまでいったんだよ的な不躾な質問が当然のごとく寄せられるのだが、彼は答えない。何かの余韻に浸っているようにも、見えなくはない。ラジカセでは山下達郎の「潮騒」が流れていた。

「風を受けてる君がいとおしく 美しいくちもとに口づける」

スピーカーから山下達郎が甘い歌声でそう歌うと、彼は近くにあったラジカセのボリュームを少し上げ、それからふたたび目を閉じた。そして、そこにいた我々は何かを正確に理解したのであった。